今日は66回目の「終戦記念日」です。
全国各地、様々なかたちで、この日が過ごされるんだと思います。
毎年注目されるのは、「靖国神社」への参拝です。
私たち真宗教団は、このことについて「靖国問題」として、参拝についての反対の姿勢ということに留まらず、その課題性を訴え続けてきました。
このことについては、別の機会に触れてみたいと思いますが、今日は「慰霊」と「鎮魂」ということについて、考えてみます。
今日はおそらく、戦死者への追悼と平和を祈念する、行事・集会等が開かれることだと思います。
そういった行事・集会のときに「慰霊」という言葉を見聞きします。
戦没者に限らず、地域の盆行事として新盆の方々の「慰霊祭」などという言葉も使われます。
「慰霊」と同様に「鎮魂」という言葉もよく使われてます。
「慰霊」や「鎮魂」、どういう意味があるのでしょうか?
「慰霊」
「霊を慰める」ということですね。
前ブログにて、仏教では「霊魂」ということを言わないと申しましたが、仮に死者の扱いを霊と受け止めたとして考えてみましょう。
「慰霊」ということは、死者を慰めてあげないといけない方として出あう向き合い方(お参りの仕方)ですよね。
慰めてあげなければいけない立場の方とは、どんな方でどこにいらっしゃるのでしょうか?
「鎮魂」
「魂を鎮める」ということです。
当然仏教の立場からすると、死者を魂と扱うのも不適切ですが、あえて魂ということで考えてみます。
鎮めるっていうことは、「おとなしくしておいてください」ということです。
つまり「祟らないでください」ということです。
亡くなった方が生き残った私たちに「悪いお仕置き」をしないように、ちゃんとお参りしておきますという向き合い方(お参りの仕方)です。
亡くなった方は私たちに祟ったりするような方なのでしょうか?
仏教の教えに照らし合わせると、亡くなった方は「仏」として出あわさせていただきます。
私たちの人生に、人として大切に生きる力、輝きをもって生きる力を与えてくださるはたらきとして向き合うべきではないでしょうか。
亡くなった方は、私たちが慰めなければいけないような惨(みじ)めな方にしたくはありません。
私たちが「おとなしくしておいてください」とお願いしなければならないような、そんな鬼のような方にしたくありません。
亡くなった方を「惨めな方」や「鬼のような方」に見ていくということは、間違いなく死を迎える私たちの行き先もそういう方々のいる世界となります。
そんな世界へ向かって生きる人生なんて、何の喜びや希望も生まれないと思います。
人生の行き着くところが「惨めで生き残った者に祟ってやろうとする世界」でいいのでしょうか。
亡くなった方をそのような世界に押し込むのは失礼だと思います。
仏教が人生を終えた世界として「お浄土」という世界を示していることの意味は大きいと思います。
苦悩し混迷をし続ける私たち人間の行き先、方向に「お浄土」が用意されているからこそ、生きる喜びと希望を持つことができるのです。
仏教の意味、宗教の意味というのはそういうことだと思います。
「お浄土があるのか?」とか、「仏がいるのか?」ということを考えるのは愚問です。
お浄土とか仏という「いのちの物語」を示し、そのことをとおして人生が問われるということです。
今まさに、苦悩して惨めであり、無意識に他人を傷つける鬼として生きるのは私たちであります。
その私を自覚し、私の人生は「お浄土」へと向っていくことが、まさに「往生」であります。
拙ブログタイトルの「往生のススメ」ということは、浄土に向かって往く人生をススメるということです。
向かう先がお浄土だからこそ、人生が深まっていくのです。
死者とどのように向き合うか?ということは、同時にどのように生きていくかということを問う問題に繋がっていきます。
「慰霊」でもなく「鎮魂」でもなく、謙虚に「感謝」と「尊敬」の思いで死者と向き合うべきではないでしょうか?