東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。

東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞
い申し上げます。
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2011年4月30日土曜日

九州新幹線のCMに異議あり!

ゴールデンウイーク初日の昨日4月29日、東日本大震災の影響で復旧が待たれていた東北新幹線、一ノ関〜仙台間の運転が再開しました。
これで、3月に全線開通した九州新幹線鹿児島ルートと合わせ、青森〜鹿児島までが新幹線で繋がりました。
九州新幹線鹿児島ルートは震災翌日の3月12日に開通しましたので、予定より50日遅れの日本列島全線開通ということになりました。
日本の鉄道網の凄さを感じます。
ところでこの九州新幹線鹿児島ルートについてですが、九州以外の人には馴染みがないかもしれませんので、ちょっと説明いたします。
九州新幹線の鹿児島ルートとは博多〜鹿児島中央間を結ぶ256.8kmの線であります。
博多〜新鳥栖〜久留米〜越後船小屋〜新大牟田〜新玉名〜熊本〜新八代〜新水俣〜出水〜川内〜鹿児島中央という駅を通過するルートです。
ちなみに、新八代〜鹿児島中央間は2004年に開通していました。
九州新幹線鹿児島ルート
九州新幹線内では「つばめ」と「さくら」があり、山陽新幹線経由で新大阪まで乗り入れる「さくら」と「みずほ」もあります。
最短所要時間は博多〜鹿児島中央間が1時間19分、博多〜熊本間が33分、新大阪〜鹿児島中央間が3時間45分となっています。
九州新幹線ができるまでは博多〜鹿児島間が3時間40分かかっていましたので、実に2時間以上の短縮となったわけです。
博多〜熊本間も40分の短縮となりました。
このことからもかなり便利になったということが分かります。
しかし、このように便利になると途中の地域が素通り地域となり潤わなくなってしまうという負の面も指摘されます。
福岡ー鹿児島間のビジネスでは、日帰りの仕事が当たり前となり、宿泊者が減ってお金が落ちないともいわれています。
まあ、福岡のような地方の中核都市は人が集まるので随分恩恵を受けると思います。

ところで私の住んでいる大分市はいわゆる東九州という地域であり、九州新幹線を利用する機会が多い地域ではありません。
福岡(博多)に行くならば鉄道だとJR日豊本線(小倉経由)の特急ソニックが早く、最短時間で1時間59分となっています。
大分〜福岡(天神)間をだいたい2時間〜2時間15分くらいで行く高速バスもあり、便数や運賃の面でJRより利用者が多いかもしれません。
熊本に行くならば大分〜熊本間を結ぶJR豊肥線というのがありますが、最短でも2時間46分かかります。
私の場合だと熊本や鹿児島なら鉄道路線に利便性を感じないので、車で行くことの方が多いです。
関西方面に関しても日豊本線で小倉まで行き、小倉から山陽新幹線を利用するというのがオーソドックスな行き方です。
新大阪〜大分間の最短所要時間が3時間47分(乗り換え待ち時間を含む)、小倉〜大分間は最短で1時間18分となっています。
九州の地形を知らない方には分かりにくいかもしれませんが、博多〜鹿児島中央間(新幹線)と小倉〜大分間がほぼ同じ時間というの驚きです。

さて、この九州新幹線の全線開通にあたってCMが流れていますが、そのCMの中で「九州が、ひとつになる。」というキャッチコピーがあります。
これは、私だけの感想ではなく多くの方が言っていますが、東九州の人間にとっては「九州がひとつになった」という思いは全くありません。
東九州はJRでいうと日豊本線沿いの地域で、北から福岡県東部、大分県、宮崎県は本当に九州では取り残された地域です。
新幹線どころか高速道路の整備も遅れています。
東九州の南北の高速道路はとぎれとぎれで、いつ全線がつながるのだろうと思います。
九州の高速道路網
宮崎県はよく「陸の孤島」だといわれますが大分よりさらに不便さを感じているのではないでしょうか。
大分の場合、県庁所在地の大分市から空港が非常に遠く空路の利用に対しても不便です。
佐賀県や長崎県は高速道路も早く整い、新幹線については九州新幹線の長崎ルート(西九州ルート)の開通も予定されています。
福岡という九州の第一都市の位置関係から致し方ない部分も認めないわけにはいきません。
これは、政治家の力の問題もあるのでしょうか。
今回の震災で首都圏(東京)一極集中への問題が再燃しています。
地方分権化も必要だといわれていますが、地方の弱みは交通網の成熟度が低いことです。
特に大分県のように九州という中でも「地方の中の地方」にあたる地域は本当に不便です。
田舎は車が不可欠です。
高齢者も車に乗らなければ生活できません。
ということで、今日のブログで言いたかったことは田舎の交通網の整備の実現とJRの九州新幹線のCMの変更を求めるということであります。
実はJR九州にCMの件で内容を不服とする旨のメールを送りましたが、反応がありません。
単なるクレーマーと思われて終りとなりそうです。

2011年4月17日日曜日

学習塾の判断基準

毎年毎年、教育というものに関することの重視度は高まっているのではないでしょうか?
学力がつく→良い学校に入る→良い就職に就く→高い収入を得る→幸せになる、という論理はもはや人間のスタンダードな考え方だといえます。
日本においてこういった考え方が定着した背景には、明治時代に入って学制というものが整えられたということもあると思います。
「国家百年の計は教育にあり」といわれるように学校制度が整ったことによって、国民全体の平均的教育も高まり、成熟した国家形成につながってきたのでしょう。
ここ数十年の間をみても、教育の整備によって途上国から先進国へと変化を遂げた国が多くあります。
しかし、教育というものが人間形成と国家形成に大きく影響するという考え方によって、人間の価値観が学力と経済力によって決められるという負の部分があることも否めません。
もちろん高度な社会になればなるほど教育力や経済力を確保する意味で、こういった社会システムは必要なことであります。
人間の価値観についての偏見はそのシステムが全面的に悪いのではなく、人間のもつ内的(心の)問題の方が大きいと思います。
南アジアのブータン王国が国民総幸福量(GNH)という概念を提唱したことは、人間や国家のあり方を見つめ直す意味で、非常に大きな意味を持つのではないでしょうか。
(このことはあらためて別投稿で触れたいと思います)

前置きが長くなりましたが、今日の本題は今から述べることです。
私もできることならば、先ほどの「学力がつく→良い学校に入る→良い就職に就く→高い収入を得る」という流れに乗りたいというのが正直な本音であることは否定できません。
おそらく我が子に対しても無意識にそういった期待をかけているんだと思います。
ちなみに、今は3人の子どもたちもそれぞれ中2、小6、小3とそこそこ成長してきたので、期待と現実に開きがあることが把握できていますので、ブータン王国で通用するような人間として成長して欲しいという期待へとシフトチェンジしています。
さて、近年では学力をつけるために学習塾に行くということが当たり前になっています。
調査基準や調査対象(公立、私立、etc)によって違いがあるようですが、小学生でも5〜6割、中学生だと約7割が塾を利用しているといわれています。
また少子化ということも手伝ってか、子どもの教育費が家計の占める割合を高くしています。
実際、親が高収入の家庭の子どもが高学歴になるというデータも出ているようで、教育格差も問題視されています。
塾も乱立しています。
あの手この手で生徒募集をしています。
そこで気になるのが学習塾の宣伝文句というかアピールのために、昨年度の合格実績が出ていることです。
今はちょうど年度始めなので、新聞広告や塾の看板広告に2010年度の実績が出ています。
「◯◯高校◯人(前年比◯%)」というように実績が示されています。
それを見て「その実績がすごいからそこに行こう」と思う人も出てくるのでしょう。
しかし、私はこの宣伝文句が理解できません。
まずその塾の塾生の全体数がわからないということです。
ちょっと極端な話ですが、例えば有名進学校に50名合格という実績があっても塾生が1000人いるんでしたらその塾は「良い塾だ」といっていいのかどうかわかりません。
また、聞くところによると良い塾は優秀な子どもしか通ってないらしく、その塾に入るために試験があって塾に入ること自体が難しいというところもあるみたいです。
塾も商売なので、塾業界の勝ち組になりたいのでしょう。
普通企業で考えると、勝ち組になるということは業界でのシェア率を高くします。
業種によっては国内シェア率90%とかいう企業もあります。
しかし、塾の場合あまりにも流行り過ぎてシェア率が高くなると合格率も高くなりますが、不合格率も高くなるということになってしまいます。
そういう意味では、塾というのは競争相手や商売敵がないと成り立たない業種だといえます。
つまり、蹴落とす相手がいないと成り立たない世界なんです。
(国家資格は定員がなく、知識や技術が定められた水準をこえると合格となります。つまり蹴落とす相手がいないのでちょっと質が違います。)
教育の成長は、優秀な子も生み出すが落ちこぼれもつくるという弊害が見え隠れします。
「物(モノ)」ならまだいいんです。
良い製品と悪い製品ができ、悪い製品はなくなっても仕方ないと思いますが、人間にそういうことをあてはめるわけにはいきません。
ちょっと話はそれましたが、社会のシステムをそこまで変えてやろうという意図は全くありません。
塾の宣伝文句の話に戻ります。
宣伝文句ですが、「◯◯中学で◯番位の生徒が◯番位になりました」というような宣伝文句を出した方が「良い塾だ」ってことになるような気がします。
どこの塾も一生懸命だし、企業努力もしています。
その中でどこが本当に良い塾なのかという判断は難しいです。
塾の規模の大きさと学校別合格者の数字上の実績が判断材料になりがちですが、もうちょっと分かりやすい判断基準が確立するといいのではないかと思います。

実はウチの子どもたちも塾通いをしてますが、ウチの場合は高いところを目指すというよりも勉強時間の確保と少しでも成績アップ(平均値を目指す程度)できればいいというくらいの気持ちです。
ちょっと皆さんとは関わるレベルの差はあると思いますが、ふと思ったので投稿しました。

2011年4月11日月曜日

オススメ!桜の見えるランニングコース

今、桜が満開です。
今年はここ数年にしては遅かったので、久々に桜のもとで入学式ができるところが多いかと思います。
4月9日(土)10日(日)が花見のピークだったようです。(ちなみに私はしてません)
気候もだいぶ暖かくなってきたので、外での活動がしやすくなりました。
なんども申してますが私の趣味はランニングですが、これから暫くは(夏の前くらいまで)ランニングにもってこいの季節となります。
特に今は桜がとてもキレイなので、桜並木を横目に走るのが最高です。
とても気持ちがいいです。
私が通常ランニングするフランチャイズコースは大分市営陸上競技場付近の堤防です。
いつも同じコースだと飽きるのでいろいろとコースを組み合わせて走っています。
この辺りは桜並木が多いので、数カ所だけですが紹介します。
もうちょっと早く投稿すればよかったんですが、後数日は楽しめると思いますので是非走ってみては如何でしょうか?(ウオーキングでもいいと思います)


①大分川西岸・弁天大橋〜舞鶴橋間
桜の木が等間隔で並んで植えられてます。
堤防の上の道路を走ると目線の高さで桜の花を楽しめます。

②大分川西岸・弁天大橋北側
弁天島公園があり、公園内に桜の花がたくさんあります。
弁天島公園

③大分川東岸・弁天大橋北側
堤防の下に桜の木があり堤防の上から見ると見下ろすかたちで桜の花を楽しめます。

桜並木の間を走ることもできます
まさに桜のトンネルです
この日は桜吹雪の間を走ることができました
④裏川・大洲運動公園北側
停泊の船と桜の木が情緒的です。

⑤臨海産業道路(40m道路)・新日鉄大分南側沿線
ここの桜は数kmにわたって咲いています。

⑥平和市民公園
花見客の多い公園ですがランニングコースもあります。
北側・新日鉄大分側
南側
⑦裏川・岩田町付近

おまけ
当寺院にも数本の桜の木があります。
今が満開です。
本堂の屋根をバックに撮影しました。
本堂南西側の桜
本堂北側(裏)の桜
桜と新緑と瓦屋根

2011年4月5日火曜日

震災義援金について

各地、各所で東北地方大震災に対する義援金活動が活発になっています。
日本赤十字社と中央共同募金会にこれまで寄せられた義援金の総額は1100億円を超え、阪神大震災の時と比べても数倍早いペースということらしいです。
また、その他のところに集められた義援金や救援物資を含めると本当に多くの方々からの支援の気持ちが届けられているということです。
芸能プロダクションのジャニーズのタレントらが取り組んだ「Marching J」という被災者支援プロジェクトでは3日間で約39万人もの方々が集結して支援活動を行ったというのは驚きです。
その他の著名人やスポーツ選手の活動や呼びかけも大きな力になっているようです。
個人で多額の義援金をする方もいます。
石川遼(今季の賞金全額寄付)、イチロー(1億円)、松坂大輔(8000万円)、松井秀喜(5000万円)、ダルビッシュ(5000万円)らのスポーツ選手も多額の義援金を送っていますし、久米宏(2億円)、SMAP(計4億円)、宇多田ヒカル(8000万円)、安室奈美恵(5000万円)、海外からはレディー・ガガ(1億2000万円)、ペ・ヨンジュン(7300万円)など、いくら高収入とはいえすごい額です。
各企業もかなりの義援金を送っていますが、ユニクロの柳井会長、楽天の三木谷社長はいずれも個人で10億円、極めつけはソフトバンクの孫正義社長がなんと100億円を個人で送っています。
しかしなんといっても、高額でなくても本当に一人ひとりが精一杯の気持ちを込めて送ったものが積み重なって大きな支援の輪になっていることが素晴らしいことであります。
こういった状況の中で、信じられないことに義援金を盗むという事件が相次いで起こっています。
それとは別に、義援金詐欺も起きています。
今回の震災の日本人の対応は世界的にもかなり評価されて、せっかく「さすが日本人」と思われていたのに残念です。
やっぱり世の中には不届き者がいるんですね。
実際には被災した家に盗みに入ったり、壊れた車両からガソリンを抜いたりという細かい事件も起きているみたいです。
さて、拙ブログ3月16日「東北地方太平洋沖地震と義援金」でも記しましたが、義援金に関わる諸問題はたくさんあります。
私のお寺が所属する真宗大谷派も「災害救援金」として募金活動を行っています。
先日の本山(東本願寺)での「被災者支援のつどい」でも各所に大きな「災害救援金」の箱がおいてありました。
ちなみに「被災者支援のつどい」の団体参拝の際に参拝した奈良の東大寺や法隆寺ではあれだけの観光客が来るお寺にもかかわらず、とても小さな義援金箱が数個あるだけでした。
元々奈良仏教の寺は鎮護国家のために建てられたものということを考えると積極的に支援活動をしてもよさそうなんですが、それに反してあまり積極性が見られなかったのは意外というよりもガッカリしました。
真宗大谷派の話に戻りますが、宗派で募っている「災害救援金」の方途がちょっと気になったので春の彼岸前に本山宗務所に問い合わせをしました。
結論としては「まだ決まっていない」ということでした。
「じゃあ阪神大震災や中越地震の時はどうしたんですか?」と問い返すと、「該当教区に見舞金、被災した寺に見舞金を、その他‥‥」ということでした。
当寺院も真宗大谷派に所属する寺院として、同じ仲間が困っている状況に支援の手を伸ばしたいという気持ちは十分ありますが、今回の震災の深大さを思うと「同志だけ助かればいいのか?」という疑問点もあります。
そういう迷いもありますが、私の取るべき態度としては、結局はどちらのかたちでも支援をさせていただこうということに落ち着きました。
しかし、気持ちの比率は全ての被災者に公平に分配することができる機関への割合が明らかに大きくあります。

義援金を公平に取り扱うことのできるいくつかの機関がありますが、その中でも最も大きな機関が「日本赤十字社」であります。
義援金については未だ被災地に行き届いていないということが疑問視されてるようですが、一戸あたりの分配はまだでも既に医療支援や物資支援など多方面にわたって支援活動がなされています。
一方、日本赤十字社に対して疑惑の目をもっている人がいるのも事実です。
例えば運営経費が義援金から差し引かれているとか、天下りの職員がいるとか、職員の優遇がすごいというような指摘があるようです。
ちなみに日本赤十字社はスイスに本部をおく国際組織であり、政府とも関わりを深く持っている団体です。
特殊法人であり、皇后陛下(美智子皇后)が名誉総裁で代表者は旧皇族関係の方が着くなどもともと宮内庁と密接な関係のある団体のようです。
また、各都道府県にある支部の代表も知事が務めることが多いようです。
天下り、待遇など件は改善すべき点はあるでしょうが、もともとこの団体の活動は社員と称される個人や企業などの献金で成り立っています。
つまりサポーターみたいな会員が大勢いるということです。
今回集められた義援金については一銭も運営経費に当てられることは決してありません。
全額義援金として使用されるようになっています。
実績もさることながら非常に多くにネットワークを持っている団体で、私は最も信用のおける団体だと思っています。
被災者一戸あたりいくらというような段階にないことは事実のようですが、尊い義援金が間違いなく有効に扱われると思います。

少し前の話になりますが、当寺院の春季彼岸會法要より義援金箱を設置しましたが、その際2つの義援金箱を設置しました。
1つは真宗大谷派が募っている「災害救援金」、もう1つは「義援金」(日本赤十字社に届ける旨)です。
支援くださる方の意志に合うように選択いただきたいということからこのようにしました。
この前投稿したブログ「東北地方太平洋沖地震と義援金」でも申しましたが、集めた義援金の行き先を明示することと強要的にならないような配慮が必要であります。
2つの義援金箱
(右)東本願寺(本山)へ届ける「災害救援金」
(左)日本赤十字社へ届ける「義援金」
義援金に関する断り書き
既に別所で済ませられている方には強要しない旨の一文があります
これをやっていない義援活動は自己満足に過ぎません。(ちょっと極端な意見ですが…)
最後はどこに持って行くくらいのことは言わないと反則です。
そういう意味では本山(真宗大谷派)の集め方も如何なものかと思います。
ましてや、同志が助かればいいみたいな同族意識が強いやり方は「同朋社会の顕現」を謳う真宗大谷派なる教団としてはあるまじき態度ではないかと思っています。
結局、当寺院の義援金箱は日本赤十字社に届ける方が額面において軍配が上がりました。
額面を勝負するのは非常にナンセンスですが、常識的な判断がなされたと思っています。
もちろん「災害救援金」の方は先日の「被災者支援のつどい」にお参りさせていただいた折に本山(東本願寺)に設置されていた「災害救援金」箱に入れてきました。
皆さん、義援金は無闇無鉄砲にするのではなく、慎重な判断のもと投じるところを選ぶくらいのことは心がけましょう。

2011年3月24日木曜日

スポーツ選手、タレント、ミュージシャンの支援活動

3月23日、震災の影響で開催が危ぶまれていたセンバツ高校野球が開幕しました。
プロ野球と違い3年間しかない高校野球生活のなかで、やっとつかんだ甲子園出場なので、こういう状況にもかかわらず開催したことを非難する人はほとんどいないと思います。
しかし、入場行進を行わないなど運営を簡素化しているようです。
また、大会スローガンに「がんばろう!日本」をかかげ、開会式のはじめに震災で犠牲になられた方々へ黙とうをささげました。
特に印象深かったのは創志学園(岡山)の野山主将の選手宣誓でした。
宣誓。私たちは16年前、阪神大震災の年に生まれました。いま、東日本大震災で多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。被災地ではすべての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は仲間に支えられ、大きな困難を乗りきることができると信じています。私たちに今できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。「がんばろう!日本」。生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。
以上が全文で、素晴らしい言葉に感動しました。
東北代表の光星学院(青森)と東北高校(宮城)も含め出場32校が憧れの舞台で精一杯がんばって欲しいと思います。

一方、プロ野球の方はセ・リーグの開催方針が世間の非難を集めています。
ファン、選手側と球団側に思いや感覚にかなりの開きがあるようです。
特に読売巨人軍の意向が色濃いようですが、巨人というチームの悪しき古き時代の体質そのものが浮き彫りになった感が否めません。
私は20年くらい前に巨人ファンをやめましたが、いまだに巨人ファンなんていうと恥ずかしい時代に突入してると思います。
話はそれましたが、こういう話は先の高校野球とは、全く違う次元の話です。
高校野球は見せるためのものではありません。
その真剣さに自ずとこっちが引きこまれてしまうんです。
私が思うに、開催や運営面についての議論とは別に、プロスポーツ選手が活躍して被災者に勇気を与えるなんていうのは幻想だと思っています。
スポーツだけでなく、多くのタレントが出て被災者を応援するような番組が流されたりするものも違和感があります。
また、ミュージシャンが応援のライブを開いたりするのもどうかと思います。
なぜそう思うかといえば、被災者が不在のところでやってるからです。
今回の震災は正直いうと「それどころじゃない!」っていうくらいの大惨事であります。
テレビどころか必要な情報ですら入ってこないんです。
確かに渡辺謙が呼びかけて始まった「kizuna311」などはいい企画なんですが、被災者がどれだけ目にできているのかが気になります。
私はプロスポーツ選手やタレント、ミュージシャンが多大な寄付金をしたり、その知名度を利用してチャリティーをしたり、支援を呼びかけたりするのは大賛成です。
阪神淡路大震災の時、ミュージシャンの泉谷しげるが
てめえら、募金しろバカヤロー!売名?そーだよ!俺はよ売名行為でやってんだ!有名じゃなきゃ金は集まらんだろバカヤロー!売名だ!一日一偽善だバカヤロー!!
と言ったらしいですが、それは正論だと思います。
先日岩手出身のJリーガー小笠原満男選手(鹿島アントラーズ)が被災地を訪問していましたが、こういうのが本当に被災者を励ましてるといえるんだと思います。
気持ちを寄せることは大事なことだし、被災者も嬉しく思うでしょう。
とにかく被災者不在のところで、しかも見えないところでどれだけ被災者にスポーツ選手の素晴らしいプレーや活躍、タレントやミュージシャンの才能を披露しても何の役にも立たないと思うんです。
被災者の精神状態を考えてください。
我々の想像をはるかに超えていると思います。
もうちょっと経って復興の兆しが見えてきたら、有名人の活躍が励みになるようなこともあるでしょう。
いまはそれを励みにできるほどの余裕がないくらい切羽詰った状況だと思います。
今や日本中の人のみならず世界中の人のほとんどが被災者に想いを寄せているはずです。
そこで「今、自分には何ができるか」という自問にたいして、自分の世界観の範囲の中から「自分たちにできることはこれだ」と思ってやっているんでしょうが、それは安直であり浅はかです。
到底無理なことを思い描くのも問題ですが、意外にも誰にでもできることの方がまずやらなければならないことかもしれません。
数日後に本山(東本願寺)の「被災者支援のつどい」に参加予定ですが、「今、何をやらねばならないのか?」「何が出きるのか?」という課題をもって参拝したいと思います。

2011年3月16日水曜日

本山職員による被災地報告

真宗大谷派では今回の東北地方太平洋沖地震にあたって現地救援のため本山職員を数名被災地に派遣しました。
その中に玉樹さんという方がおられ、私と知人だったのでメールがきました。
マスコミをはじめいろいろなところで被災地の状況が報道されていますが、せっかく貴重な報告をいただいたので玉樹さんの報告を共有いただきたく思い、ブログにて紹介させていただきます。



【3月15日(火)15:30】

今朝から陸前高田にて救援活動を開始し、無事にベースキャンプの寺に戻り、今から仙台へ引き返します。

お寺も民家も、何もかも津波にさらわれ、想像を超絶する惨状に、適切な表現ができかねます。

海岸から6キロ地点の河口まで、瓦礫の山で、遺体収容も間に合っていません。

瓦礫の山から次々と遺体が見つかっている状況です。
体がバラバラになってしまったお姿、苦しみもがいたであろうお姿、数えきれないご遺体の前で、家族を探し泣いている声、ただ唖然と言葉なく立ち尽くす姿、言葉になりません。

私の眼前のこの光景の中にも、足下にもまだ無数のご遺体があるのでしょう。

避難所では、一度に一瞬にして多くの家族を亡くし、また家族の安否がわからない不安と悲しみの中、少ない物資を分け合いながら助け合っておられます。

今朝から10リッター規制での部分給油が始まり、関係者の安否と物資を自ら求めに行こうと、スタンドに長蛇の列が作られてます。

多くの命を失いながらも、必死に生きる命の姿がたくさんあります。

子どもが無邪気に遊ぶ姿に、余計に胸が痛みます。

この惨状は現実であり、誰にも起こり得ることです。
1日1日・一瞬一瞬を大事に生きることの大切さを痛感しています。

物が足りません。
ここに物を運び届ける燃料が足りません。

1人1人の1秒の節電とか応援の言葉で、救われる命が、救わなければならない命がここにあります。生きようとする命があります。
全力で、全力で支えましょう。

復興したこの街の姿を、またいつか必ずや見れますように。
添付画像①
添付画像②
添付画像③
添付画像④
添付画像⑤

東北地方太平洋沖地震と義援金

今回の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)は言葉にならないくらい悲惨な状況になっています。
テレビなどでの報道を釘付けになって見ましたが、日に日に地震や津波による爪痕の大きさが明らかになってきました。
一瞬にして街が消えてしまうなど、映画のシーンかと疑いたくなるほど信じられない光景が次々に入ってきます。
まずは、犠牲となられた多くの方々に謹んで哀悼の意を表すとともに、被災された方々、関係者には衷心よりお見舞い申し上げます。
地震発生から100時間以上が過ぎ、少しだけですがやっと投稿ができるくらい落ち着きを取り戻せました。
今現在も、行方不明者の救出、生存者の確認、避難されている方の援助に加え、被害を受けた福島原発の対処などが急がれています。
また、今後いかにして復興すればいいのか、本当に復興の道筋が立つなだろうかというように問題は山積しています。
余震もまだまだ続いているようです。
不安な日々が続き、被災者は体力的にも精神的にも疲労困憊の状態だと思います。
世間はどこに行っても地震の話題ばかりで、様々な考えや意見が出されています。
私も思うことは山ほどありますが、少しづつですが綴ってみます。

早速、被災者に対する支援の輪が広がってきています。
日本のみならず、世界中からも被災した日本に対して温かい支援をいただいています。
今回の悲惨な出来事とは反対に、世界中の人の気持ちは一つになりつつあります。
その気持の届け方や、支援の仕方には様々なかたちがあります。
それぞれの人がそれぞれのかたちでできることをすればいいと思います。
例えば、電力の供給が懸念されているため節電が必要になっています。
日本中で節電意識は確実に高まっていると思います。
それも支援のかたちです。
既にボランティアとして現地に赴いた方もいるようです。
私も駆けつけていきたいんですが、何が必要とされているのか、どういう行動を取るべきか、私には何が出来るのかということをもうちょっと冷静に考えてみたいと思っているところです。
不足した物資の供給が急務のようですが、物資についてはただ「送ればいい」という訳にはいかないみたいです。
むやみ無鉄砲に物資を送るとその仕分けや送付などに逆に手を煩わせるというような問題が、過去の災害にその前例として残っています。
すると当面はお金での支援がその効率からしても最も適しているということになります。

既に各地で義援金の協力が始まっています。
私もかつて阪神淡路大震災をはじめ様々な災害に対しての義援金活動に関わったことがあります。
しかし、この義援金というのは非常にデリケートな問題を抱えていると思います。
まず思うことは、義援金というのは必ずどこに送るかを明記することが大切だと思います。
こういう時に不謹慎にも義援金詐欺が横行することがありますが、詐欺ではないということを示すためでもありますが、どういう種類の支援活動のネットワーク上のものであるかということをあらわすためです。
そのほとんどが日本赤十字社に送られるケースが多いかと思いますが、どこが取りまとめる募金活動の末端として義援金を集めるかということです。
義援金というのは提供する側のことを考えて募らなければなりません。
「こういうふうに困っている方がいるので支援をしてください」というような支援を啓発的に行うケースもあります。
例えばまだ世間に知られていないような難病の支援団体などが行う場合はこういうケースなんだと思います。
しかし今回の震災のように世間では自明のこととして認知されていることへの支援活動ならば窓口の一つとして行動しているということを自覚すべきであります。
行政やマスコミが義援金の受付をしていますが、今回のようなケースは本来はそれで十分だと思います。
しかし、現代社会ではネット利用者が多いのでインターネットから募金が送れるのは非常に効果的なのでそういった形態のものも必要だと思います。
Yahoo!JAPANのサイト上にある「Yahoo!基金」はこれまで実績を残してきました。
確かに入り口はいくつもあった方がいいので、コンビニのレジなどにもあるのはいいことだと思います。
そういう意味でいろいろな団体や場所で義援金活動が広まっているというのはいいことなんだと思います。
しかし、義援金を提供しようとする人の側からすると被災者の方へ気持ちを寄せているのに、そこへ募る人や団体の顔が強く出ると歪のようなものが出てくると思います。
正直にいうと分母の取り合いになりかねないということです。
ユニクロでお馴染みのファーストリテイリングの柳井会長が個人で10億円の寄付をしたそうですが、それぞれの財力と気持ちから試算して個人ができる義援金の額は決まっています。
それをどこ経由で送ったかということによって、集める側の成績意識を煽ってしまいます。
義援金の取り合いが始まります。
決まってる分母を取り合うと、無意識のうちにそれを「手柄」としてしまうものです。
今回の悲惨な状況の中で「そんなこと考えるはずがない。純粋にやってます。」と反論がありそうですが、あえて自虐的な見方をするならば義援活動をエゴイズムの延長に位置づけてしまいがちな人間性を認めないわけにはいきません。
決して自己満足の内にとどめてはいけません。
よく「どこで誰が義援活動をやってます」という情報が入ってきますが、時としてそれは自己満足の押し付けに聞こえます。
なぜなら、今回の義援金の受付は前述のとおり行政とマスコミ、ネットレベルで十分全国民に知れわたっているからです。
実際、先日「◯◯さんが明日どこで義援金活動するらしいから、そこに行って募金しようと思う」と言われる方がいましたが、私は「わざわざ行かなくても近くのところにいくつでも義援金を受け付けてるからそこですればいいんじゃないですか?」と答えました。
義理が邪魔なんです。
義援金を募ってるところに知り合いが前を通った時、義援金がいただけなかったら不服感が出るんじゃないでしょうか?
もしかしたら既に多額の義援金を出されてるかもしれませんし、その方も義援金を募る活動をしてるかもしれません。
赤い羽根のように「既に募金しました」っていうのが目に見えるというのはよく工夫された形態だ思います。
結局こういう活動をするのは、支援活動に励んでいるという社会的アピールの方が強くなってしまうんじゃないでしょうか。
確かに何もしないと「社会的関心がうすい」というレッテルを貼られてしまうので何もしないわけにはいきません。
私のお寺が所属する真宗大谷派も義援金の窓口を開設しています。
これはどちらかというと対外的というよりも宗派内のための窓口(会社内で社員に呼びかけるようなもの)だと思います。
先程のコンビニの話と同様の意味(義援金の窓口が目に触れるところに多くあったほうがいいという意味)で当寺院でも義援金箱を設置しようと検討しています。
しかし、「まだ義援金をされていない方へ」とか「義援金の送付宛のない方はこちらで受け付けます」というような文言を添えておきたいと思っています。
あくまでも末端の窓口の一つであり、「義援金はどこでも一つで繋がっている」というような意味合いを意識付けするためです。

何度も申しますが、今回のこれだけの悲痛な出来事に対して本当に多くの人が心を痛め涙して、心を一つにして助け合いたいという気持ちが強くなっています。
だからこそ、本当の意味で人間性が問われます。
私も本当にいろいろなことを考えさせられており、自分自身ときびしく自問自答をしながらこの現実に目をそむけることなく向き合っていきたいと思います。
義援金を呼びかける活動、募金する活動はいずれも尊敬に値する行為です。
しかし、自分自身と葛藤しながら関わりを持ち続けなければならないと思う次第です。

2011年3月3日木曜日

国際化人間と語学について

昨日の飲み会で盛り上がった件を整理します。
最近どんな世界もグローバル化が進んでいます。
インターネットなどの普及で世界が身近になったように思えます。
海外志向も強くなっています。
留学する人も多くなったり、外国で働く人が多くなったりしてます。
スポーツの世界もスゴイです。
野球でメジャーに行く人が多くなり、サッカーでも海外で活躍する日本人が増えてます。
フィギアスケートは日本のお家芸となりました。
逆もあって、相撲界は外国人力士が多い上に強くなってきました。
そんな中、来年度から(つまり来月からですが)小学校高学年は外国語の授業が必須になります。
理由は国際的に通用する人の育成ということで、中学からではなく吸収力のある早い段階から学ぶことが大切ということです。
実際、学校現場ではそのための体制において十分な準備ができなくて混乱もあるようです。
指導できる教員の確保などが問題のようです。
そういった問題点はともかく、英語が苦手だった私からすれば早くから外国語を学ぶに越したことはないわけです。
語学が堪能だったらなあと思うことは頻繁にあります。
今からでも勉強したいと思わないでもありません。
語学留学が流行ってます。
残念なことですが、先日のニュージーランド地震で被災された方々も語学研修のために渡航されていました。
語学を学びたいと思うことは大変いいことだと思います。
しかし問題視したい点は別にあります。
それは国際的に通用する人にみんながみんなならなければならないのか?ということです。
仕事とは関係ないにしても、都会にいて外国人と接することや、海外旅行に行くことがある場合は語学が役に立つことがあると思いますが、英語が全くできなくても人生を全うすることは出来ます。
そんなことをいうんだったら、学校の勉強なんて人生の役に立つことなんて少ないってことにもなります。
確かに数学の微分積分よりも外国語の方が役に立つようにも思えます。
でも微分積分はある種の人材育成の目的とはちょっと違います。
考える力を養う分野じゃないでしょうか。
私は専門的分野の学びはもっと将来の方向性を見極めてからでいいような気がします。
医学、経済、機械、建築、電気など専門的に学んだ人が携わればいいんです。
そういう意味で外国語の学びも専門的学びの範疇にいれて、やりたい人がやったらいいと思うんです。
世間は国際人になることも煽りながら、田舎暮らしのよさも伝えます。
想像ですが、人里離れた田舎で自給自足の生活してたら外国語はあんまり必要じゃない気がします。
でもそんな人生でも素晴らしいじゃないですか。
義務教育の間はもっと優先的に学ぶべきものがあるんじゃないでしょうか?
例えば環境問題とか。
税の仕組みや社会保障についても大事なことだけど、案外何も知りません。
立場的に言わせてもらえば宗教学も大切だと思います。
どの宗教がどうだってことじゃなく、宗教とは何か?といったことについてです。
世界中の人と接することによって、人間の厚みが出てくるなんてことをいう方もいますが、別のかたちでも人間の厚みを持つことができるはずです。
外国語について別の角度から考えると、今からは翻訳のツールが充実してできない人はできないなりにコミニュケーションができるようになるんじゃないでしょうか?
また、母国語の日本語がきっちりとできなくなったという指摘もあります。
(ちょっと前の拙ブログでもちょっと触れましたが)
つまるところ、グローバルな人という人間の理想像には疑問が残るということです。
なんでもそうなんですが、ある一定の人間の理想像をつくるとそれに漏れる人を排除しようとする観念が生じるんです。
もちろん教育指導内容についてはどこかで線引きが必要となりますが、私の思いとしては外国語に価値観を重くするのは無理があるということです。
バイリンガルな人の育成に成功した国が国益を増したことがあったとしても、真似すればいいというもんじゃないです。
パソコンだってやりたい人がやればいい、テレビだって見たい人がみればいいんです。
音楽が好きな人、スポーツが好きな人がいます。
強要すべきものの分野とそうでない分野があるはずです。
これだけいっても、断っておくことは語学が堪能なことで不便を感じることはないということと、私が外国語アレルギーだということです。
悪しからず。

2011年2月13日日曜日

気になる言葉の使い方

先程のブログでちょっと思い出したので、関連した余談をいくつか申します。

【若者言葉】
俗に「若者言葉」というものがあります。
流行りの言葉表現とでもいいましょうか、正式には認められてはないでしょうけど新しい日本語の使い方として最近よく世間で耳にするものです。
年甲斐もなく私もついつい使ってしまうことがあります。
しかし、やっぱりいくつかどうしても気になるものもあります。
例えば「ヤバイ」という言葉です。
「ヤバイ」という言葉は本来「具合の悪い様」「不都合」を意味する形容動詞「やば」を形容詞化したもので、もとは盗人や香具師の隠語であったようです。
つまり否定的というかどちらかというとネガティブな意味合いで使う言葉だということです。
しかし、最近は美味しい物を食べて「やばいくらい美味しい」などの使い方がされるなど肯定的な場面でも使われています。
どうやら80年代頃より若者言葉として「格好悪い」の意味で使われるようになったようで、さらには90年代頃から「凄い」という意味合いで肯定、否定に関わらず使われるようになったようです。

一方「全然+肯定形」の表現も若者言葉のように受け止められています。
「全然大丈夫」とか「全然美味しい」というような使い方です。
この使い方はおかしいんじゃないかといわれています。
確かに「全然」ときたらその後は打ち消しや否定の言葉が続くと教えられたような気がします。
しかし辞書には「全く」「完全に」「まるっきり」「すっかり」「全面的に」などの意味があり、肯定形を伴ってもおかしくない言葉であります。
言葉というものは時代とともに使われ方が変わってきたようですが、少なくとも明治時代頃からは「とても」という意味の使われ方をしていたようです。
夏目漱石も小説の中で肯定形を伴って使っていたようです。
ですから、若者言葉が本来正しかったという例もあります。

【自分の呼び方】
小さい子どもが自分のことを「〇〇ちゃん」とか「〇〇くん」とか自分の名前で言ってますが、如何なものかと思います。
まあ、小さいうちは許されるかもしれません。
ただ、女性に多いですが大人になっても自分のことを名前で呼ぶ人がたまにいます。
これはおそらく小さい時に「わたし」という一人称を使ってなかった癖が抜けないんだと思います。
許される小さい子といっても私の感覚からすると小学校就学前までが限界と感じます。
小学生で自分のことを名前で言ってると「親は何も言わないのだろうか?」と思ってしまいます。
私はウチの子どもには小さい時から一人称を使わせています。
他人の子どもでも、何度か子ども本人に「おかしいよ」と注意したことがあります。
今、小さいお子さんがいらっしゃる方ちゃんと躾をしましょう。

【申される】
ウチの宗門(真宗大谷派)の関係者に多く見られる表現に「申される」という言葉があります。
「〇〇さんが申されたように〜」というような表現をする方が非常に多いです。
「申す」というのは「言う」の謙譲語であります。
それに「れる」という尊敬の言葉をつけるというのはおかしいです。
「言う」の尊敬語は「仰る」ですから、「仰られる」が正しいはずです。
しかし、時代劇などで「殿が申される」などという言い回しをしています。
実は古典では「申す」が「言う」の丁寧語であったようです。
ですから時代劇などでそういう言い回しをするのはある意味歴史的に忠実な演出であります。
『平家物語』や『太平記』『徒然草』などでも頻繁に出てくるようです。
しかし、色々と調べてみましたが現代においてそういった使い方をするのは誤法であるのは間違いないようです。
確かにお寺の世界では古典的表現、古文体の表現が使われることもありますが、会話の中で使われるのは如何なものかと思います。

以上言葉の使い方に関しての気になる点を述べました。
また、気になることがありましたらブログします。

身内の「さん付け」

以前からちょっと気になっていたことがありますので、ブログします。
それは自分の身内を他人に話すとき「さん付け」している人が多いということです。
両親に対して「お父さん」とか「お母さん」と呼ぶのは当たり前なんですが、他人に言うときは「父」や「母」が日本人の常識じゃないでしょうか?
その傾向は、特に芸能人やスポーツ選手などの有名人に多く、とても気になります。
正直、10代の若い子なら分からないでもないですが、30代や40代、どうかしたら50代のいい歳の方でも平気で使ってます。
一般人の方がちゃんと使えてるんじゃないでしょうか?
テレビのニュースかなんかで、中学生くらいの子にインタビューしたのが流れたりすることがありますが、ちゃんと「父が」とか「母が」って言ってますよ。
あまりにも「さん付け」する人が多いので、日本語としてそういう使い方が「良し」とされるようになったのかと思います。
まさか、常用漢字などが追加されるように、数年前から他人に話すときでも「さん付け」してもよくなったんじゃないでしょうね。
まあ確かに、親しい人に話すときはかしこまりすぎるので、わざわざ「父」とか「母」とは言わないです。
男性の場合は「オヤジ」とか「おふくろ」、兄弟であれば「兄貴」とか「姉貴」とも言います。
これならテレビで聞いてもさほど違和感はありません。
何度も言いますがやっぱり「お父さん」や「お母さん」などは引っかかります。
芸能人などは事務所とかが注意しないんでしょうか?
芸能界は結構礼節を重んじる(意外にも)と聞いていますが、どうなんでしょう?
それこそ、ご意見番的立場となっている和田アキ子やマツコ・デラックスあたりが注意したらいいのにと思います。
最近スポーツで活躍する若者が多いですが、インタビューなどで「お母さん」とか言ってると幻滅します。
そういうところを含めて成長して欲しいです。
あの石川遼も「さん付け」して呼んでますね。
残念です。
ウチには中1、小5、小2の子どもがいますがこのことは躾として徹底させたいと思っています。
あまり小さい子どもが「父」や「母」というのも不自然ですが、小学校高学年くらいであれば「父」「母」でもおかしくないと思います。
逆に自分の子どもを普段「〇〇くん」「〇〇ちゃん」と呼んでいたとしても、他人に話すときは呼び捨てにするのが常識です。

謙遜や謙譲というのは日本人の持つ美学でもある謙虚な姿勢のあらわれです。
「お仕事は何ですか?」と聞かれ、「私のお仕事は〇〇です」という人もいます。
あれも変です。
人は身びいきになったり、身内自慢をしがちな面を誰しももっていますが、そういう発言をするにしても「手前味噌ですが」とか「身内が言うのもおかしいですが」と「ことわり」の言葉をつけるという手法を持っています。
確かに日本語は難しいです。
敬語や謙譲語は特に難しいといわれています。
こんな発言をしていながら、私自身がきっちりと使えていないんだろうという反省もあります。
いずれにしても有名人というのは影響力が大きいいので、気をつけていただきたいと思います。
さすがに流行となった「トイレの神様」の歌詞にでてくる「おばあちゃん」が「祖母」という言葉で歌われていたら全く雰囲気が出ないですね。

2010年10月10日日曜日

母校60周年

今年は母校「大分県立大分舞鶴高等学校」の60周年です。
最近その記念式典などがあったらしいです。
「らしい」というのも、このことについて殆ど情報がないからです。
ニュースや人伝えに聞きました。
10月6日の記念式典(於:グランシアタ)ではOBの南こうせつと伊勢正三がライブを行ったらしいです。
よく高校や大学などで◯周年とかで記念事業や式典をやってますが、だいたい一部の人しか関わらないんですね。
最近も新聞などで見たんですが、大分県内の何校かの高校が周年を迎えたみたいです。
今回の母校60周年ですが、同じ大分舞鶴出身の友達に訊いても、知らなかったという人が殆どでした。
ちなみに60周年を迎えることは、同窓会の会報などが定期的に来るので以前から知ってはいました。
恐らく会報をよく読めば式典等についても知ることができたと思います。
早い話、こちらに関心がないんですね。
それはいいんですが、腑に落ちない点があります。
会報を通して60周年にむけての寄付金の依頼がありましたが、出しませんでした。
そこで思い出したのは、10年前の50周年の時のことでした。
その時もこちらに関心がなく今回同様、後で色々な事業式典等について知りました。
多分50周年なので今回よりも大々的にしたんじゃないでしょうか。
その時に思ったことは、もう少し色々な人に関わってもらうことが大事なんじゃないかということでした。
母校舞鶴高校というのは比較的結束のある学校だと思います。
私は第33回生なんですが、同窓の方に会うと「何回生?」という話から同窓生話に花が咲くことがよくあります。
誰と一緒だったとか、先生は誰がいたなど同窓生というだけで世代を超えての交わりが深い校風だと思います。
だからこのような周年事業を迎える時は、実行委員みたいな人がいると思うので、まずは各回生ごとに委員を選出し、各回生毎にローラー的に広く呼びかけを図ることが大事だと思うんです。
つまり会報プラス人伝えが大事だと思うんです。
関心のある人は一方的な情報伝達だけで十分なんです。
ネット情報などはこちらから関心事をもとに探しに行ってるんで十分だと思います。
広告チラシでも関心のあるモノには食いつきます。
DMなども同じだと思います。
会報もDM感覚と一緒なんですね。
ただ、同窓生の強みは人がネット状に存在しているということです。
周年事業に携わる人が直接協力を求めると全然違うと思います。
会報をとおしての関心度より遥かに関心度が高まる筈です。
4年前、卒業以来初めての同級会をしたことがありましたが、急な思いつきの割にはそれこそ人伝えで60名くらいの人が集まりました。
その2年後の同級会では100人くらい集まった記憶があります。
同級会とは比べられないかもしれませんが、周年事業でも関わろうとする人も潜在的には多くいると思います。
もともと実行側がそこまで望んでいないんだったらこの話は全く意味のないものになりますが、もしそうであるならばそれはそれで問題だと思います。
何故ならばこういう周年事業は実行側の自己満足の世界に閉ざされて終わるという最大の問題を抱えているのです。
関わらなかった人が見えてないんです。
大分で最も伝統のある大分上野丘高校も数年前周年記念事業があり、大分銀行ドーム(当時の九州石油ドーム)で何千人か集めたみたいですが、集めたということはかなり人が動いたと思います。
それでも実行委員の自己満足的なところは拭えなかったようです。
私の家族は父親が1回生ですし、姉、叔父たちも大分舞鶴の同窓生ですが誰も今回の60周年に関わりを持ちませんでした。
私は仕事や友達を含め普段から付き合いのある人だけでも何十人規模の同窓生を知っています。
恐らくその中で、今回の60周年事業に関わった人は殆どいないと思います。
そのくらい一部の人だけでやってる話なんです。
特に寄付金など会報のような情報伝達で募っても数字が上がる訳がないです。
誰かに直接頼まれてたら、絶対協力したと思います。
一部の人でやってるからしらけるし、協力しない、そして次回もというスタイルがどんどん大部分の方と母校との接点を遠くしているんだと思います。
このスパイラルは変えるべきです。
決して関われなかったヒガミではなく、純粋に母校への想いと自分自身への課題という意味でそう思います。
私自身も事業を企て促進する側になることがあります。
情報伝達のツールをつかうだけでなく、人が直接意を伝えることの大切さと関心のある人を堀り出して行く作業が大切だということを意識しなければならないと思います。
ちなみに、今日現在大分舞鶴高校のHPに60周年のことが記載されていないのは信じられないです。

2010年9月17日金曜日

ネット社会の関わり方

近年、メディアの種類が多様化してきました。
昔は、新聞、テレビ、それに雑誌が加わるくらいでした。
今はIT時代という括りでいいのかどうかはわかりませんが、インターネットをはじめ様々なメディア媒体があります。
新聞、テレビは情報が一方通行なのが特徴です。
悪く言えば、情報操作されてるかもしれません。
新聞やテレビのニュースなんか、どうやって選んでるんでしょうね。
何故こんなどうでもいいようなことが取り上げられるんだろうと思う時があります。
あるいは、同じような事柄なのに、あることは取り上げられ別のところは取り上げられなかったりということもあります。
その判断基準はどこにあるんでしょうか。
地方のニュースになると、こっちがある程度世間の動きがわかるから、ニュースにならなかったことが何故取り上げられなかったんだろうと思うことがあります。
ただ、最近のテレビなどでは視聴者参加型の形式や機能があるので少しは変わってきたと思います。

ところが現代のネット社会における情報というのは、これまでとは全く別物です。
まず、情報の量が膨大です。
しかも情報のソースも様々で多岐にわたっています。
いったい誰がどこで仕入れたんだろうというような情報もあります。
当然、その分根も葉もない情報もあるでしょう。
それから現代というのは、個人の主義主張が簡単かつ公に発信できるというのが最大の特徴であります。
このようなブログもその一つでありますし、ツイッターなんていうのも然りです。
「風呂入った、なう。」などというツイートもあり、個人のたわいもない生活が情報の一つとして存在しています。
そういったものとは別に、ずいぶん前から掲示板というのがあり個人の意見、思い、考えが公開されています。
こういうネット社会の現実に対して、法的にも倫理的にもモラル的にもいろいろなルール作りが必要になり、時には社会的問題を引き起こしているのも事実です。
私もどちらかというとネット社会にどっぷり浸かっている生活をしていますので、ユーザーとしてそういった意識を強く持たなければならないと感じています。
いずれにしても、一方通行のメディア時代よりも遥かによくなったと思います。
政治に対するものの見方はよっぽど政治学を学んでいない限り難しく、メディアの見方に影響されるのは現実ですが、ネット社会の情報量の多さにより政治も民意主導になってきたんだと思います。
以前、私がツイッターで、
「今、日本人に必要なのは、自分自身の頭で考えること、自分一人で考えることである。インターネットに代表されるネットワーク時代というものは、他人の真似をしていては駄目だ。自分が受信者であると同時に、発信者でもなければならない。」
という大前研一さん(経営コンサルタント)の言葉をツイートしたことがあります。
情報を受けるばかりでなく、発信するというのが大事なんだと思います。
ただ、メディアに対する個人個人の関わり方も非常になってきます。
情報を判断する覚悟、発言する覚悟が必要です。


そこで、今日の本題です。
個人の主義主張にはどうしてもその内容に批判的要素を伴うものです。
言論の自由と名誉毀損などがぶつかり、裁判沙汰になることもあるようですが、私は法律的なことに詳しくないんですが微妙な問題があります。
人が批判するときは批判する場所があります。
面と向かって批判するときもあるでしょう。
ディベートの場で批判し合うこともあるでしょう。
そして、メディア媒体の場で批判し合うこともあるんです。
それこそネットの掲示板なんか見てると批判合戦で、だんだん言葉も下品になって、PCの画面見てるだけなんですが尋常ではない状況が伝わってくることもあります。
私は、批判は決して悪だとは思いませんが、せめてもっと上品に批判し合って欲しいと思います。
私が問題視すべき点は、その批判し合う場所を批判することについてであります。
例えば、ツイッターでツイッターの批判をするということです。
ツイッターという場を批判するならツイッターじゃないところで批判したらいいと思うんです。
〈在り方論〉を論じることはあると思います。
新聞はこう在るべき、テレビはこう在るべき、というようなものです。
掲示板とかツイッターとかブログなどは個人の主義主張をのせることができる新しいコンテンツです。
〈在り方論〉を論じても、様々な個人が交わることがウリの世界においてはそれが蛇足になると思います。
在り方を定義付けできないということです。
ある意味では、いろんな人がいるという〈在り方論〉が成り立つのかもしれませんね。
いろいろな人が入って来れる場所なのに、「そういう考えの奴は入ってくるな」といって排除しては駄目です。
自分の考えに合わない人間が入ってくると、「もうこの世界(フィールド)はつまらない」と言うようなものです。
こういう世界に関わるという時には、様々な個人がいるのを前提にて、その一人一人が自由に主張できるという場を尊重しなければならないと思います。
その中でそれぞれの主義や意見を批判し合ったらいいんじゃないでしょうか。
あらためて、申し上げますがあくまでも法的、倫理的、モラル的なことは無視してはいけません。

2010年9月7日火曜日

大分川河川敷レポート

私の趣味はジョギングです。
様々なコースを走りますが、フランチャイズコースは大分川河川敷です。
大分川河川敷は河口より賀来橋まで、約10kmにわたり堤防の上下に歩行者自転車専用道路がついています。
その間をいろいろな組み合わせで、10〜20kmほどの距離をだいたい週5日くらい走っています。
ほぼ毎日走ってますと、本当にいろんな発見をします。
そこで、今日は河川敷について語らせていただきます。
上流から下流にかけて道は繋がっていますが、河川敷の景色はかなり違います。
はっきりいうと、河口に近い舞鶴橋周辺はとてもキレイなんですが、上流に行くにつれてだんだん整備の度合いが低くなっているように思います。
私は河口から川沿いにかけて、約8.5kmくらいの所に住んでるもので、住民からすれば不益というか格差を感じてしまいます。
約10kmの間はどこもジョギング、ウオーキング、犬の散歩、サイクリング、通勤、通学、車椅子ランナーなど人の往来がまんべんなくあります。
しかし、くつろいでる人や遊んでいる人の数は河川敷の整備されたところの方が圧倒的に多いです。
つくづく環境整備って大事なんだなあと思います。
キレイな町づくりや町並みは人のこころを豊かにすると思います。
ゴミのポイ捨て一つとってもキレイなところでは捨てにくくなったりということがあるのではないでしょうか。
東京は結構キレイなところが多くなったと思います。
場所にもよるんだと思いますが、外国も観光地に限ってはどこもキレイだと思います。
こういうのが治安の善し悪しにも繋がるんだと思います。
ニューヨークのハーレムなんかも最近はキレイになって、昔ほど危なくないと聞いたことがあります。
もちろん経費のかかることなんでどこもという訳にはいかないでしょうが、なるべくそういうところにお金を使って住民のこころが豊かになる社会を推進することも大事だと思います。
以下、写真で様子をレポートします。
弁天大橋〜舞鶴橋付近(河口より1〜2km)
この辺はとてもキレイで、公園的役割をもちます。
夕方涼んでいる人、昼間はサラリーマンの人が休んだり、子連れで遊んでる人も多いです。
草刈りも頻繁に行われているし、夜も多くの街灯があって安全です。
舞鶴橋付近
こんな、トレーニング器具もあります。(市が設置したらしい)
舞鶴橋〜滝尾橋付近(河口より2〜3km)
ちょっと上流に来るだけで、ただの河原になります。
滝尾橋上流付近(河口より3.5km)
野球のグランドがありますが、その周辺は草野原です。
同じく滝尾橋上流付近(河口より3.5km)
せっかく広い場所があるのに草を刈ってないので立ち入りにくいです。
広瀬橋下流付近(河口より4.5km)
堤防と川岸の間にかなり広範囲に竹やぶがあり、中はうっそうとしてゴミなども多いです。
同じく広瀬橋下流付近(河口より4.5km)
堤防と川岸を竹やぶが遮断しています。
対岸もうっそうとしています。
広瀬橋上流付近(河口より5km)
この日も除草作業をしていました。
いつもいずれかのところで行われていますが、頻度に格差があります。
経費はかなりかかると思われるので、いつもどこもキレイっていう訳にはいかないでしょうね。
縦割り行政の極みです。
国土交通省、県、市などの管轄のことでこうなります。
堤防上の道路の管轄がその周りの除草を請け負いますので、1メートル幅位で草が残ってます。
どうにかならないんでしょうか?
広瀬橋上流付近(河口より5.5km)
この時期、堤防付近はキレイに草が刈られてます。
野球のグランドがありますが、周りが草むらと薮なのでいつもボールを失ってます。
広瀬橋〜府内大橋付近(河口より5.5km)
昨年、この辺は「ホタルの散歩道」と称して1.5kmにわたって、15mおきに歩道灯が設置されました。
こういうのが、社会的に効力があると思うんです。
夜はとてもキレイです。
ただ残念なことに、設置後すぐに2,3基壊されるいたずら(ニュースになった)に遭いました。

府内大橋下流付近(河口より6km)
この辺も河川敷に広い場所があるんで、公園的な雰囲気に整備できないですかねえ。
学校もありますし、人口も多い地区なんで価値があると思うんですが。
府内大橋下流付近(河口より6km)
この辺はよくバーベキューなどをしている団体が多いですが、決してロケーションはよくないです。
逆にあまりキレイに整備すると、最近話題になってる都会の河川敷でのバーベキューマナーの悪さというような問題を引き起こすことになるんですかねえ。
府内大橋上流付近(河口より7km)
野球場などがあり、利用者も多いし、時にはイベントなども行われるところです。
だからこそ、もっと整備を望みます。
府内大橋〜明磧橋付近(河口より7〜8km)
この間は約1kmくらい、こんな感じです。
川岸に木が多く堤防から川が見えません。
防災のためにこれらの木は必要なのかもしれません。
この辺の河原でくつろいだりしている人は皆無と言っていいです。
この辺から、賀来橋までは街灯もなく夜は真っ暗です。
女性の方などは絶対一人で通らない方がいいと思います。
府内大橋〜明磧橋付近(河口より7〜8km)
たまたまですが、堤防の上の道沿いは賀来橋まで草が伸び放題です。
時期がたまたまとはいえ、舞鶴橋付近とは除草頻度の格差があるのは確かです。
明磧橋下流付近(河口より8km)
この辺も川岸にほとんど近づけません。
世間では子どもたちに川に行ってはいけませんといいますが、それは整備してないからです。
整備すればそれほど危険な場所ではないと思います。
不審者なども絶対減ると思います。
明磧橋上流付近(河口より8.5km)
この辺りは私の自宅から50mくらいのところです。
河原がもっとキレイに整備されると人が集まり、地域コミュニケーションの場になるはずです。
私が子どもの時分は草滑りやつくし取りなどして遊んだものですが、今はほとんど子どもを見ません。
明磧橋上流付近(河口より9km)
ここから賀来橋までの約1kmはこんな感じが続きます。
これは堤防沿いにある車道側の様子
草がもう少し伸びるととても危ないんです。
縁石が見えなくなり車がよく堤防にぶつかってます。
それと堤防から降りてくる人が車から見えなく、事故に繋がるということです。
この辺は是非なんとかしてほしいです。

2010年8月28日土曜日

活字離れ問題

最近、活字離れが問題視されることが多々あります。
新聞を読んだり、本を読んだりすることが減少したことを原因とするのでしょうか?
それによって、言語能力の低下、勉学意欲の減退など、知的水準が落ちるなどといったことが起こっているとも言われます。
ワープロの使用が当たり前になった時代以降、PCや携帯電話が普及し、更にはメールやネットの利用増加との関係で思うことを書きます。
私自身は、PCやネット関係の依存率がかなり高い方だと思います。
しかし、おそらく活字に触れる割合はそれに伴って多くなった印象があります。
テレビもよく視る方ですが、最近の番組はテロップがすごく多いです。
いつ頃からでしょうか、しゃべってるのに、更にそれがテロップとして流れています。
最初それが非常に目障りで嫌だったんですが、今では当たり前になってあった方がいいように思えてきました。
メールをしたり、Twitterをしたり、このようにブログを書いたりして、文章をつくる機会も多くなりました。
とにかく、活字や文字、文章に埋もれた生活をしているように思えます。
検索をかけたりする際に言葉を選ぶ行為は、かなり頭を使うような気がします。
ただし、手書き文化とは明らかに違う点も否めません。
まず、書き換えがきくので文章が洗練されていきます。
できるだけ完璧な文章を作ろうとするんですね。
(こんな文章しか書けないくせにエラそうなこと言うなって思われますよね。)
読み返して書き換えているうちに、どんどん表現が変わってきます。
手書きで書いた文章の方が、未熟な文体なんでしょうが、書きたい内容に近いものが残せるように思います。
それから、漢字は多く覚えます。
何故なら、変換してくれるからです。
辞書で調べなければわからない漢字も使いたくなります。
ただし、やっぱり書かないから、《読めるけど書けない現象》は起こってしまいます。
そういう意味ではiPhoneやiPadの手書き機能は優れものかもしれません。
いずれにしても、私に限らず多くの人々が、活字に触れ、作文の機会が多くなったと思います。
そういうことからして、言語能力の低下はどこに原因があるのかということです。
私は、会話量の減少が問題の一つだと考えます。
本願寺8代目蓮如上人は、しきりに「寄り合い談合せよ」とおっしゃられました。
つまり、みんなで話をしましょうということです。
現代社会は、プライベートな時間が多すぎるんですね。
人と接する機会が少ないから、会話する時間が少なくなる訳です。
会話というところに言語能力の向上の秘訣があると思うんですが......。

2010年8月25日水曜日

挨拶、掃除、履物揃え

真宗では、ある意味道徳的なことに執着しない傾向があります。
そのために、かつて「門徒ものしらず」と称されていました。
これは、道徳や人情をこえて真実に目覚める真宗の教えからいうと当然でありますし、そこが真宗の真骨頂といってもいいと思います。
それ故、真宗の関係者、というかはっきり言いますと真宗の僧侶は冒頭に記したことが門徒の証であるという受け止めが強すぎるせいか、世間離れした人が多いように思います。
私にもそういう点があることを否定するつもりはありません。
しかし、人としてのある程度の礼儀、礼節はやはり大事だと思います。
例えば、時や場をわきまえた服装をするということは、当たり前なことなのにそれができない。
決して外見だけで人を判断する訳ではありませんが、そういう人って社会的信頼がなくなると思います。
社会を尊敬しないというのは、如何なものでしょうか?
私事ですが、三人の子どもがおりまして、その子育てについては悪戦苦闘というか試行錯誤の連続です。
我が子に対してはあまり高望みをする気はありませんが、この三つについて徹底できる人間になってほしいと思っています。
それは、
  ①挨拶のできる人
  ②掃除が上手な人
  ③脱いだ履物をきっちりと揃えることができる人
の以上三項目です。
この三つの事柄についてですが、最近これらのことができない大人があまりにも多いことに驚きを覚えています。
挨拶のできない人と履物が揃えられない人は、老若男女問わず多くいます。
掃除が下手な人は、概ね50歳以下の人に多くいると感じています。
特に草取りや落ち葉かきなどの外の掃除はかなり下手です。
こういったことができない人は、どうでしょう?
ちょっと大げさですが、私は信頼が持てません。
こういったことは子どもの時期からやってないとなかなかできません。
まずは、我が子に徹底させたいと思っています。