先程のブログでちょっと思い出したので、関連した余談をいくつか申します。
【若者言葉】
俗に「若者言葉」というものがあります。
流行りの言葉表現とでもいいましょうか、正式には認められてはないでしょうけど新しい日本語の使い方として最近よく世間で耳にするものです。
年甲斐もなく私もついつい使ってしまうことがあります。
しかし、やっぱりいくつかどうしても気になるものもあります。
例えば「ヤバイ」という言葉です。
「ヤバイ」という言葉は本来「具合の悪い様」「不都合」を意味する形容動詞「やば」を形容詞化したもので、もとは盗人や香具師の隠語であったようです。
つまり否定的というかどちらかというとネガティブな意味合いで使う言葉だということです。
しかし、最近は美味しい物を食べて「やばいくらい美味しい」などの使い方がされるなど肯定的な場面でも使われています。
どうやら80年代頃より若者言葉として「格好悪い」の意味で使われるようになったようで、さらには90年代頃から「凄い」という意味合いで肯定、否定に関わらず使われるようになったようです。
一方「全然+肯定形」の表現も若者言葉のように受け止められています。
「全然大丈夫」とか「全然美味しい」というような使い方です。
この使い方はおかしいんじゃないかといわれています。
確かに「全然」ときたらその後は打ち消しや否定の言葉が続くと教えられたような気がします。
しかし辞書には「全く」「完全に」「まるっきり」「すっかり」「全面的に」などの意味があり、肯定形を伴ってもおかしくない言葉であります。
言葉というものは時代とともに使われ方が変わってきたようですが、少なくとも明治時代頃からは「とても」という意味の使われ方をしていたようです。
夏目漱石も小説の中で肯定形を伴って使っていたようです。
ですから、若者言葉が本来正しかったという例もあります。
【自分の呼び方】
小さい子どもが自分のことを「〇〇ちゃん」とか「〇〇くん」とか自分の名前で言ってますが、如何なものかと思います。
まあ、小さいうちは許されるかもしれません。
ただ、女性に多いですが大人になっても自分のことを名前で呼ぶ人がたまにいます。
これはおそらく小さい時に「わたし」という一人称を使ってなかった癖が抜けないんだと思います。
許される小さい子といっても私の感覚からすると小学校就学前までが限界と感じます。
小学生で自分のことを名前で言ってると「親は何も言わないのだろうか?」と思ってしまいます。
私はウチの子どもには小さい時から一人称を使わせています。
他人の子どもでも、何度か子ども本人に「おかしいよ」と注意したことがあります。
今、小さいお子さんがいらっしゃる方ちゃんと躾をしましょう。
【申される】
ウチの宗門(真宗大谷派)の関係者に多く見られる表現に「申される」という言葉があります。
「〇〇さんが申されたように〜」というような表現をする方が非常に多いです。
「申す」というのは「言う」の謙譲語であります。
それに「れる」という尊敬の言葉をつけるというのはおかしいです。
「言う」の尊敬語は「仰る」ですから、「仰られる」が正しいはずです。
しかし、時代劇などで「殿が申される」などという言い回しをしています。
実は古典では「申す」が「言う」の丁寧語であったようです。
ですから時代劇などでそういう言い回しをするのはある意味歴史的に忠実な演出であります。
『平家物語』や『太平記』『徒然草』などでも頻繁に出てくるようです。
しかし、色々と調べてみましたが現代においてそういった使い方をするのは誤法であるのは間違いないようです。
確かにお寺の世界では古典的表現、古文体の表現が使われることもありますが、会話の中で使われるのは如何なものかと思います。
以上言葉の使い方に関しての気になる点を述べました。
また、気になることがありましたらブログします。
まあ、小さいうちは許されるかもしれません。
ただ、女性に多いですが大人になっても自分のことを名前で呼ぶ人がたまにいます。
これはおそらく小さい時に「わたし」という一人称を使ってなかった癖が抜けないんだと思います。
許される小さい子といっても私の感覚からすると小学校就学前までが限界と感じます。
小学生で自分のことを名前で言ってると「親は何も言わないのだろうか?」と思ってしまいます。
私はウチの子どもには小さい時から一人称を使わせています。
他人の子どもでも、何度か子ども本人に「おかしいよ」と注意したことがあります。
今、小さいお子さんがいらっしゃる方ちゃんと躾をしましょう。
【申される】
ウチの宗門(真宗大谷派)の関係者に多く見られる表現に「申される」という言葉があります。
「〇〇さんが申されたように〜」というような表現をする方が非常に多いです。
「申す」というのは「言う」の謙譲語であります。
それに「れる」という尊敬の言葉をつけるというのはおかしいです。
「言う」の尊敬語は「仰る」ですから、「仰られる」が正しいはずです。
しかし、時代劇などで「殿が申される」などという言い回しをしています。
実は古典では「申す」が「言う」の丁寧語であったようです。
ですから時代劇などでそういう言い回しをするのはある意味歴史的に忠実な演出であります。
『平家物語』や『太平記』『徒然草』などでも頻繁に出てくるようです。
しかし、色々と調べてみましたが現代においてそういった使い方をするのは誤法であるのは間違いないようです。
確かにお寺の世界では古典的表現、古文体の表現が使われることもありますが、会話の中で使われるのは如何なものかと思います。
以上言葉の使い方に関しての気になる点を述べました。
また、気になることがありましたらブログします。
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