日本では一般的に、先祖供養をするための伝統的な仏教行事として定着しています。
各宗派というよりも、各地方によってその勤め方が様々に受け止められているようです。
今では8月のこの時期をお盆とすることが多いかと思いますが、本来は7月であるともいわれています。
各地方の勤め方について詳しく触れませんが、お盆の時期に先祖の霊が帰ってきて、お盆が終わったら霊を送るというというのが一般的な考え方かも知れません。
お盆とは正式には「盂蘭盆会」といいますが、『盂蘭盆経』というお経にその由来があるとされています。
「盂蘭盆」とはインドの言葉「ウランバナ」が音訳されたものです。
「ウランバナ」とは「倒懸」と訳されます。
「倒懸」とは逆さ吊りにされた状態のようにこの上ない苦しみをいいます。
『盂蘭盆経』の内容は次のようなことです。
お釈迦様の弟子の目連尊者が、餓鬼道に落ちて倒懸の苦しみを受けている母親を救う為に、お釈迦様の教えに聞き従って母親を救済したということです。
実はこの『盂蘭盆経』は中国で作られたものであり、ある意味で「偽経」ともいわれているお経であります。
ですから、極端な言い方をするとお盆は仏教とは関係ないという見方をする人もいます。
しかし、中国で作られようが、日本で作られようが、それなりに仏教の背景は持ち合わせているんだと思います。
ですから、本来の仏教の教えに照らし合わせてどう解釈するかが大切であります。
仏教でも各宗派によってその解釈は違うと思います。
今回はどう解釈すべきかということは、あえて避けますが、「霊を迎えて送る」ということについて述べたいと思います。
もともと仏教では「霊魂」というものを認めません。
「霊魂」は有るか無いかという議論がありますが、有る無しを議論すること自体が自我や我執の延長にあることです。
つまり仏教は「(諸法)無我」(執着を超えた世界)を説きます。
お釈迦様は「霊魂の存在は確かめる必要がない」と説かれ、有る無しで右往左往すること自体が無意味なこと、迷いを深めることと教えてくださっておられます。
仏教では、亡くなられた方は霊ではなく仏(迷いを超えた立場)となります。
お盆に先祖の霊を迎えて送るというのは、先祖に対して甚だ失礼な話だと思います。
あれだけ大切に思っていた先祖を迷った存在として扱い、離れ難いと思っていたのにたったお盆の数日間しか出あおうとしない行為です。
亡くなられた方は、仏として出あうべきです。
むしろ迷いのまっただ中にあるのは私たちであり、その私たちに寄り添いながら救済くださる大切なはたらきとして出あうべきです。
仏様は四六時中いつでもどこでも出あえる方です。
迎え火とは、「帰ってくるところはここですよ」という意味があります。
つまり「霊」だから迷ってるんです。
迷ってるから目印が必要なんです。
仏教の教えに照らし合わすと、多くの日本人が行っているお盆の過ごし方は仏教から逸脱していると思います。
この時期になると盆提灯を飾るということが行われますが、どういう意味があるのでしょうか。
一説では、迎え火と同様に提灯の灯りが死者の霊にとって目印になるからといわれています。
実は浄土真宗の正式なお荘厳としては、お盆には「切籠(切子灯籠)」という灯籠を下げます。
「切籠」とは、上部が八角形の火袋になっていて、下部に切紙の尾をつけた灯籠であります。
これは「倒懸」を表しているといわれます。
『盂蘭盆経』に、目連尊者の母親の倒懸が記されていますので、女性の方が逆さ吊りにされている姿を表しているのです。
下部の切紙が女性の人の髪だということです。
真宗大谷派の「切籠」 |
白・赤・紺で彩りされています |
灯籠、提灯に型の違いはあるものの、お盆に下げる意味は「倒懸」ということであります。
できる限り浄土真宗の方は提灯ではなく「切籠」を用いることをおすすめします。
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