今日、9月20日は所謂「彼岸の入り」です。
お中日にあたる秋分の日を挟む一週間を「お彼岸」といいます。
春も同様に春分の日を挟む一週間が「お彼岸」です。
今年は9月20日から26日までが「秋の彼岸」にあたります。
「彼岸」とは、サンスクリット語のパラミータという言葉の漢訳で「到彼岸」を略した言葉です。
つまり、「彼岸」(彼の岸、向こう側の岸)とは煩悩を越えた悟りの世界、仏の世界である極楽浄土のことです。
一方、煩悩や迷いに満ちた我々の世界、娑婆のことをこちら側の岸「此岸」(しがん)と言います。
この行事は仏教の行事ですが、もっと言うならば日本独自の仏教行事です。
日本では春分、秋分の日は昼と夜の長さが同じです。
昔から、「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、これには深い意味があるのです。
(因に近年は彼岸を大きく越えて暑さが続くように思います。少し気候の変化を感じます。)
暑い間や、寒い間はなかなか出向きにくく、仏教の教えを聞くことが難しいですが、、一番過ごしやすくなったこの時期、あらためて仏法聴聞に励みましょうということです。
交通安全週間や動物愛護週間などと同様に、仏法聴聞週間というようなものが「彼岸」です。
恐らく、春分、秋分の日が祭日なのは、休みを利用してお寺参りや墓参りに励みましょうという理由だと思います。
最近はこの時期の祭日を利用して、旅行をしたりイベントなどを催したりということが多くなりした。
運動会などもあったりしますが、正直申しますとこのお中日に開催するというのは非常識だと思います。
お寺参りや墓参りができません。
休みの本質が本末転倒しています。
今一度、彼岸のあり方、春分、秋分の日の意味を問い返していただきたいものです。
当西福寺では毎年春秋とも、お中日を挟んで三日間の「彼岸會法要」をお勤めしています。
今秋の彼岸會法要は22日〜24日までの三日間お勤めいたします。
因に、本願寺八代目の蓮如上人の帖外御文(五帖八十通に収まっていない御文)に「彼岸會御文」というのがあり、お彼岸の本来的意味がよく窺うことができますので、紹介します。
此時は、人の心ゆたかなるによりて、信行増上し易し。
されば、冬は秋の余り、夏は春のすへなれば、夏冬は艱(勤)苦にして、信心修行もをろそかになりやすきに、この両時の初めこそ、信行相続して、未安心の人は宿善の花も開け、信心開発の人は、佛果圓満のさとりをもうるにより、都て佛法信仰の人は、参詣の足手を蓮び法會に出座するものなり。
しかれば、彼岸會といへることは、七日の内中日は、日輪西方にかたぶき、かの浄土の東門に入りたまふ。
此ゆへに無爲涅槃の極樂を彼岸とはいへり。
今娑婆を此岸といひて、生死海有爲の迷のきしなるにより、佛願正智の弘誓の舟に乗じ、さとりのかのきしに至りうるの念佛なれば、経には一切善本皆度彼岸と説し(き)、又は究竟一乗至于彼岸とものたまへり。
故に當流祖師聖人の御法流には、まづ平生業成の御勧化入正定聚の益あれば、あながちに此両時にはかぎらず、つねに佛恩を信知するといへども未安心の人はたゞ名聞人目ばかりの心にして法座にのぞみたまはゞ信心も等閑なるべし。法理も白地にならずして、たとへば珠を淵になぐるが如く、又はうへきの根なきに似たり。
これ(ひ)ねがはくは皆々、名聞人目の心をすてゝ、信心報謝の念をはこぶべきなり。
その肝要と申すは、弥陀如來をたのみ、今度の我等が一大事の、後生たすけたまへと、一筋に信じ雑行雑修をはなれたる、一心專念の人は、十人も百人も、のこらず極樂に往生すべきことをたふとみ、その嬉さには、ねてもさめても南無阿彌陀佛を申して、足手をはこび信心相続あらば、ひとへに信行両益の人と云べし。
これすなはち十即十生百即百生の人数たるべきものなり。
これぞまことに彼岸會参詣といふべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ
右於吉崎一宇令建立執行彼岸會者也。
文明五年八月十四(十三)日 蓮如 五十九歳判
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