東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。

東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞
い申し上げます。

2010年9月17日金曜日

ネット社会の関わり方

近年、メディアの種類が多様化してきました。
昔は、新聞、テレビ、それに雑誌が加わるくらいでした。
今はIT時代という括りでいいのかどうかはわかりませんが、インターネットをはじめ様々なメディア媒体があります。
新聞、テレビは情報が一方通行なのが特徴です。
悪く言えば、情報操作されてるかもしれません。
新聞やテレビのニュースなんか、どうやって選んでるんでしょうね。
何故こんなどうでもいいようなことが取り上げられるんだろうと思う時があります。
あるいは、同じような事柄なのに、あることは取り上げられ別のところは取り上げられなかったりということもあります。
その判断基準はどこにあるんでしょうか。
地方のニュースになると、こっちがある程度世間の動きがわかるから、ニュースにならなかったことが何故取り上げられなかったんだろうと思うことがあります。
ただ、最近のテレビなどでは視聴者参加型の形式や機能があるので少しは変わってきたと思います。

ところが現代のネット社会における情報というのは、これまでとは全く別物です。
まず、情報の量が膨大です。
しかも情報のソースも様々で多岐にわたっています。
いったい誰がどこで仕入れたんだろうというような情報もあります。
当然、その分根も葉もない情報もあるでしょう。
それから現代というのは、個人の主義主張が簡単かつ公に発信できるというのが最大の特徴であります。
このようなブログもその一つでありますし、ツイッターなんていうのも然りです。
「風呂入った、なう。」などというツイートもあり、個人のたわいもない生活が情報の一つとして存在しています。
そういったものとは別に、ずいぶん前から掲示板というのがあり個人の意見、思い、考えが公開されています。
こういうネット社会の現実に対して、法的にも倫理的にもモラル的にもいろいろなルール作りが必要になり、時には社会的問題を引き起こしているのも事実です。
私もどちらかというとネット社会にどっぷり浸かっている生活をしていますので、ユーザーとしてそういった意識を強く持たなければならないと感じています。
いずれにしても、一方通行のメディア時代よりも遥かによくなったと思います。
政治に対するものの見方はよっぽど政治学を学んでいない限り難しく、メディアの見方に影響されるのは現実ですが、ネット社会の情報量の多さにより政治も民意主導になってきたんだと思います。
以前、私がツイッターで、
「今、日本人に必要なのは、自分自身の頭で考えること、自分一人で考えることである。インターネットに代表されるネットワーク時代というものは、他人の真似をしていては駄目だ。自分が受信者であると同時に、発信者でもなければならない。」
という大前研一さん(経営コンサルタント)の言葉をツイートしたことがあります。
情報を受けるばかりでなく、発信するというのが大事なんだと思います。
ただ、メディアに対する個人個人の関わり方も非常になってきます。
情報を判断する覚悟、発言する覚悟が必要です。


そこで、今日の本題です。
個人の主義主張にはどうしてもその内容に批判的要素を伴うものです。
言論の自由と名誉毀損などがぶつかり、裁判沙汰になることもあるようですが、私は法律的なことに詳しくないんですが微妙な問題があります。
人が批判するときは批判する場所があります。
面と向かって批判するときもあるでしょう。
ディベートの場で批判し合うこともあるでしょう。
そして、メディア媒体の場で批判し合うこともあるんです。
それこそネットの掲示板なんか見てると批判合戦で、だんだん言葉も下品になって、PCの画面見てるだけなんですが尋常ではない状況が伝わってくることもあります。
私は、批判は決して悪だとは思いませんが、せめてもっと上品に批判し合って欲しいと思います。
私が問題視すべき点は、その批判し合う場所を批判することについてであります。
例えば、ツイッターでツイッターの批判をするということです。
ツイッターという場を批判するならツイッターじゃないところで批判したらいいと思うんです。
〈在り方論〉を論じることはあると思います。
新聞はこう在るべき、テレビはこう在るべき、というようなものです。
掲示板とかツイッターとかブログなどは個人の主義主張をのせることができる新しいコンテンツです。
〈在り方論〉を論じても、様々な個人が交わることがウリの世界においてはそれが蛇足になると思います。
在り方を定義付けできないということです。
ある意味では、いろんな人がいるという〈在り方論〉が成り立つのかもしれませんね。
いろいろな人が入って来れる場所なのに、「そういう考えの奴は入ってくるな」といって排除しては駄目です。
自分の考えに合わない人間が入ってくると、「もうこの世界(フィールド)はつまらない」と言うようなものです。
こういう世界に関わるという時には、様々な個人がいるのを前提にて、その一人一人が自由に主張できるという場を尊重しなければならないと思います。
その中でそれぞれの主義や意見を批判し合ったらいいんじゃないでしょうか。
あらためて、申し上げますがあくまでも法的、倫理的、モラル的なことは無視してはいけません。

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