東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。

東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞
い申し上げます。

2011年3月3日木曜日

国際化人間と語学について

昨日の飲み会で盛り上がった件を整理します。
最近どんな世界もグローバル化が進んでいます。
インターネットなどの普及で世界が身近になったように思えます。
海外志向も強くなっています。
留学する人も多くなったり、外国で働く人が多くなったりしてます。
スポーツの世界もスゴイです。
野球でメジャーに行く人が多くなり、サッカーでも海外で活躍する日本人が増えてます。
フィギアスケートは日本のお家芸となりました。
逆もあって、相撲界は外国人力士が多い上に強くなってきました。
そんな中、来年度から(つまり来月からですが)小学校高学年は外国語の授業が必須になります。
理由は国際的に通用する人の育成ということで、中学からではなく吸収力のある早い段階から学ぶことが大切ということです。
実際、学校現場ではそのための体制において十分な準備ができなくて混乱もあるようです。
指導できる教員の確保などが問題のようです。
そういった問題点はともかく、英語が苦手だった私からすれば早くから外国語を学ぶに越したことはないわけです。
語学が堪能だったらなあと思うことは頻繁にあります。
今からでも勉強したいと思わないでもありません。
語学留学が流行ってます。
残念なことですが、先日のニュージーランド地震で被災された方々も語学研修のために渡航されていました。
語学を学びたいと思うことは大変いいことだと思います。
しかし問題視したい点は別にあります。
それは国際的に通用する人にみんながみんなならなければならないのか?ということです。
仕事とは関係ないにしても、都会にいて外国人と接することや、海外旅行に行くことがある場合は語学が役に立つことがあると思いますが、英語が全くできなくても人生を全うすることは出来ます。
そんなことをいうんだったら、学校の勉強なんて人生の役に立つことなんて少ないってことにもなります。
確かに数学の微分積分よりも外国語の方が役に立つようにも思えます。
でも微分積分はある種の人材育成の目的とはちょっと違います。
考える力を養う分野じゃないでしょうか。
私は専門的分野の学びはもっと将来の方向性を見極めてからでいいような気がします。
医学、経済、機械、建築、電気など専門的に学んだ人が携わればいいんです。
そういう意味で外国語の学びも専門的学びの範疇にいれて、やりたい人がやったらいいと思うんです。
世間は国際人になることも煽りながら、田舎暮らしのよさも伝えます。
想像ですが、人里離れた田舎で自給自足の生活してたら外国語はあんまり必要じゃない気がします。
でもそんな人生でも素晴らしいじゃないですか。
義務教育の間はもっと優先的に学ぶべきものがあるんじゃないでしょうか?
例えば環境問題とか。
税の仕組みや社会保障についても大事なことだけど、案外何も知りません。
立場的に言わせてもらえば宗教学も大切だと思います。
どの宗教がどうだってことじゃなく、宗教とは何か?といったことについてです。
世界中の人と接することによって、人間の厚みが出てくるなんてことをいう方もいますが、別のかたちでも人間の厚みを持つことができるはずです。
外国語について別の角度から考えると、今からは翻訳のツールが充実してできない人はできないなりにコミニュケーションができるようになるんじゃないでしょうか?
また、母国語の日本語がきっちりとできなくなったという指摘もあります。
(ちょっと前の拙ブログでもちょっと触れましたが)
つまるところ、グローバルな人という人間の理想像には疑問が残るということです。
なんでもそうなんですが、ある一定の人間の理想像をつくるとそれに漏れる人を排除しようとする観念が生じるんです。
もちろん教育指導内容についてはどこかで線引きが必要となりますが、私の思いとしては外国語に価値観を重くするのは無理があるということです。
バイリンガルな人の育成に成功した国が国益を増したことがあったとしても、真似すればいいというもんじゃないです。
パソコンだってやりたい人がやればいい、テレビだって見たい人がみればいいんです。
音楽が好きな人、スポーツが好きな人がいます。
強要すべきものの分野とそうでない分野があるはずです。
これだけいっても、断っておくことは語学が堪能なことで不便を感じることはないということと、私が外国語アレルギーだということです。
悪しからず。

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