東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。

東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞
い申し上げます。

2011年9月22日木曜日

父と子のスイーツ教室

9月19日、長女と次男の通う小学校(大分大学教育福祉科学部附属小学校)の「だのはる倶楽部」(PTA男性保護者の会)主催の「父と子のスイーツ教室」が開催されました。
だのはる倶楽部では、年間を通じて構内の清掃活動や諸行事のお手伝い、あるいは親睦懇親会などを行っていますが、その他に親子の親睦と交流を目的とした活動も企画しています。
その一つとして、一昨年には「料理教室」、そして昨年度は「スイーツ教室」を行いました。
今年度はとても好評だった昨年度に引き続き2回目の「スイーツ教室」となりましたが、今回も約40組の応募定員に対し、70組を超える親子の参加募集がありました。
折角なので、やはり応募された方には全員参加いただこうということで、午前・午後の2部に分けて行う予定を変更して午前・午後各2部の計4部に分けての開催となりました。
今回の講師は昨年に引き続き、大分市志手にある「sweets dining 2月14日」のオーナーシェフの阿南喜一氏でした。
※「2月14日」のHPにこの日のことが掲載されました。クリック→ブログ
左)阿南喜一オーナーシェフ
右)スタッフの津賀尾さん(左)と前田さん(右)
昨年はミルクレープに挑戦しましたが、今回はスペシャルホットケーキを作りました。
スイーツ系はオーブン等がなければできないメニューが多いのですが、学校の家庭科室でもできる範囲でメニューを考えてくださいました。

【作り方】
薄力粉(200g)上白糖(80g)ベーキングパウダー(8g)
これらを牛乳(200cc)で混ぜます
無塩バター(23g)をフライパンで溶かします
溶かした無塩バターを入れて混ぜます
卵(100g)を加えて混ぜます 
あとはフライパンで焼きます
【完成】
左)阿南シェフの見本
中)西本校長先生の力作
右)子どもたちもたくさん焼きました

日頃台所に立つことも少ないお父さん方も多かったでしょうが、失敗しながらも親子で協力しあって真剣に取り組む姿が印象的でした。
是非これを機に、たまには家庭でも親子でいろんなものを作ってみてはいかがでしょうか。

家庭科室の様子①
家庭科室の様子②
西本校長(左)と三宮副校長(右)もご参加くださいました
この日はOBSラジオトピッカーの取材があり、生放送で中継されました
だのはる倶楽部、浦田会長と刀祢さん父娘がインタビューを受けました
インタビュアーの荒金由希子さんは大学生だった数年前に附属小学校に教育実習に来られたそうです
トピッカーのブログにこの日のことが掲載されました
クリック→「トピ☆ブロ
第1部
第2部
第3部
第4部

2011年9月16日金曜日

南大分青年クラブ30周年

9月3日(土)南大分青年クラブの30周年記念の祝賀会が大分東洋ホテルにて開催されました。
南大分校区、地区の自治委員の方々、南大分青年クラブOB会の方々、さらには過去在籍の方々など有縁の方が約60名ほど参集いただき、30周年を祝っていただきました。
私も12年前に引き続き2回目の会長ということで、この記念すべき年に再び会長ができたことをありがたいご縁をいただいたと思っています。
また、素晴らしいメンバー、仲間に巡り会えたことを本当に喜んでいます。
お越しいただきました皆様方には厚く御礼申し上げます。
ありがとうございました。

南大分青年クラブの現メンバー
当クラブは南大分地域の発展に少しでも貢献したいということから発足した会であります。
ここまでこれたのも、地域の皆様のご支援とご協力、そして諸先輩方のご尽力とご指導のおかげであります。
特に今年同じく30回の記念大会となった「みなみおおいいた夏祭り」は、私たちが最も関わってきたところであり、今や私たちの財産でもあります。

今からちょうど10年前の20周年記念も同じく大分東洋ホテルにて行われました。
その時は会員数の減少などもあり、正直30周年は迎えられるんだろうか?という不安はありました。
しかし、なんだかんだ言ってもこの10年間も充実した活動ができたと思っています。

今回の30周年にあたり、テーマを「而立」とさせていただきました。
これはご存知のように孔子の「論語」に出てくる言葉です。
「吾十有五にして学に志、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲するままに従がえども矩を踰えず」
三十にして立つ=而立
三十歳になり、自己の確固とした立場を以って揺るがさず、精神的に自立するという意味です。
やっと30年かけて独り立ちすることができた会であります。
しかし、次の40周年はいよいよ「不惑」の年です。
いうならば、これからの10年間はまだまだ戸惑い続けるんだろうと思います。
戸惑いながらも「もう惑わず」の40周年に向けて邁進していかなければなりません。

祝賀会は決して盛大なものではありませんでしたが、同窓会のような雰囲気で素晴らしい会となりました。
40周年に向けてのスタートとして気合いを入れ直すことができました。

10年前の20周年の時と同様に、いまだ尚、当クラブも現会員が僅か15名と寂しい状況で、なおかつ青年クラブといいながら40歳以上の会員も多く存続が危ぶまれています。
南大分に在住、あるいは職場が南大分という方でなくても大歓迎です。
すごく雰囲気のいい会なので、是非一緒に活動してみませんか。

会長としてご挨拶させていただきました
毎度のことですが、長い挨拶になってしまいました
何しろ思いが多すぎたので・・・ 
左)南大分校区自治委員協議会 広岡会長の祝辞
中)みなみおおいいた夏祭り 柴田相談役の祝辞
右)大分南ライオンズ 板倉会長の乾杯
南大分校区自治委員協議会から感謝状と金一封が贈呈されました
身に余る光栄と感謝いたします
ありがとうございました
記念事業として南大分公民館、南大分小学校、南大分中学校に航空写真を寄贈しました
当日お見えになられました首藤公民館長に贈呈しました
記念品の「而立」グッズ
左上)記念誌
右上)オリジナル麦焼酎
下)手ぬぐい
記念誌
中には釘宮大分市長からのご祝辞も記載されています
会場の様子① 
会場の様子②
過剰の様子③
21期から30期までの歴代会長の挨拶 
ビンゴ大会
盛り上がりました
過去の活動がスライドショーで流されました 
司会の田中アイちゃん
大人気でした
次期、31期会長の相馬現副会長の閉会挨拶
OBの長峯会長と松尾さんによる万歳三唱
でしたが、お約束のコマネチでした
記念撮影 
祝賀会ではホスト役でゆっくりできなかったので2次会、3次会・・で現役クラブ員で飲み直しました

2011年8月31日水曜日

真宗ジュニアアート展

真宗大谷派 日豊教区 大分市組では青少幼年教化事業として、真宗ジュニアアート展を開催しています。
次世代を担う若い世代に少しでも仏縁に触れていただきたいという願いのもとに開催いたしました。
今回は、「仏さま」「ともだち」「お寺」「お坊さん」「いのち」「平和」「絆(きずな)」というテーマから好きなものを選んでいただき、未就学児から小学生、中高生から約80点以上の作品の応募がありました。
どの作品も力作ぞろいで子どもたちの視点に感動をいただきました。
展示場所は、大分市末広町の光西寺さん山門横の築地塀です。
残り一週間くらいの展示となりました。
是非、ご覧いただきたいと思います。
作品①
作品②
作品③
作品④
作品⑤
作品⑥ 
作品⑦
作品⑧
作品⑨ 
作品⑩ 
展示の様子①
展示の様子②
光西寺さんの掲示板

2011年8月15日月曜日

慰霊と鎮魂

今日は66回目の「終戦記念日」です。
全国各地、様々なかたちで、この日が過ごされるんだと思います。
毎年注目されるのは、「靖国神社」への参拝です。
私たち真宗教団は、このことについて「靖国問題」として、参拝についての反対の姿勢ということに留まらず、その課題性を訴え続けてきました。
このことについては、別の機会に触れてみたいと思いますが、今日は「慰霊」と「鎮魂」ということについて、考えてみます。

今日はおそらく、戦死者への追悼と平和を祈念する、行事・集会等が開かれることだと思います。
そういった行事・集会のときに「慰霊」という言葉を見聞きします。
戦没者に限らず、地域の盆行事として新盆の方々の「慰霊祭」などという言葉も使われます。
「慰霊」と同様に「鎮魂」という言葉もよく使われてます。
「慰霊」や「鎮魂」、どういう意味があるのでしょうか?

「慰霊」
「霊を慰める」ということですね。
前ブログにて、仏教では「霊魂」ということを言わないと申しましたが、仮に死者の扱いを霊と受け止めたとして考えてみましょう。
「慰霊」ということは、死者を慰めてあげないといけない方として出あう向き合い方(お参りの仕方)ですよね。
慰めてあげなければいけない立場の方とは、どんな方でどこにいらっしゃるのでしょうか?

「鎮魂」
「魂を鎮める」ということです。
当然仏教の立場からすると、死者を魂と扱うのも不適切ですが、あえて魂ということで考えてみます。
鎮めるっていうことは、「おとなしくしておいてください」ということです。
つまり「祟らないでください」ということです。
亡くなった方が生き残った私たちに「悪いお仕置き」をしないように、ちゃんとお参りしておきますという向き合い方(お参りの仕方)です。
亡くなった方は私たちに祟ったりするような方なのでしょうか?

仏教の教えに照らし合わせると、亡くなった方は「仏」として出あわさせていただきます。
私たちの人生に、人として大切に生きる力、輝きをもって生きる力を与えてくださるはたらきとして向き合うべきではないでしょうか。
亡くなった方は、私たちが慰めなければいけないような惨(みじ)めな方にしたくはありません。
私たちが「おとなしくしておいてください」とお願いしなければならないような、そんな鬼のような方にしたくありません。
亡くなった方を「惨めな方」や「鬼のような方」に見ていくということは、間違いなく死を迎える私たちの行き先もそういう方々のいる世界となります。
そんな世界へ向かって生きる人生なんて、何の喜びや希望も生まれないと思います。
人生の行き着くところが「惨めで生き残った者に祟ってやろうとする世界」でいいのでしょうか。
亡くなった方をそのような世界に押し込むのは失礼だと思います。

仏教が人生を終えた世界として「お浄土」という世界を示していることの意味は大きいと思います。
苦悩し混迷をし続ける私たち人間の行き先、方向に「お浄土」が用意されているからこそ、生きる喜びと希望を持つことができるのです。
仏教の意味、宗教の意味というのはそういうことだと思います。
「お浄土があるのか?」とか、「仏がいるのか?」ということを考えるのは愚問です。
お浄土とか仏という「いのちの物語」を示し、そのことをとおして人生が問われるということです。
今まさに、苦悩して惨めであり、無意識に他人を傷つける鬼として生きるのは私たちであります。
その私を自覚し、私の人生は「お浄土」へと向っていくことが、まさに「往生」であります。
拙ブログタイトルの「往生のススメ」ということは、浄土に向かって往く人生をススメるということです。
向かう先がお浄土だからこそ、人生が深まっていくのです。

死者とどのように向き合うか?ということは、同時にどのように生きていくかということを問う問題に繋がっていきます。

「慰霊」でもなく「鎮魂」でもなく、謙虚に「感謝」と「尊敬」の思いで死者と向き合うべきではないでしょうか?

2011年8月12日金曜日

お盆の迎え火・送り火と「切籠」

お盆の時期です。
日本では一般的に、先祖供養をするための伝統的な仏教行事として定着しています。
各宗派というよりも、各地方によってその勤め方が様々に受け止められているようです。
今では8月のこの時期をお盆とすることが多いかと思いますが、本来は7月であるともいわれています。
各地方の勤め方について詳しく触れませんが、お盆の時期に先祖の霊が帰ってきて、お盆が終わったら霊を送るというというのが一般的な考え方かも知れません。

お盆とは正式には「盂蘭盆会」といいますが、『盂蘭盆経』というお経にその由来があるとされています。
「盂蘭盆」とはインドの言葉「ウランバナ」が音訳されたものです。
「ウランバナ」とは「倒懸」と訳されます。
「倒懸」とは逆さ吊りにされた状態のようにこの上ない苦しみをいいます。

『盂蘭盆経』の内容は次のようなことです。
お釈迦様の弟子の目連尊者が、餓鬼道に落ちて倒懸の苦しみを受けている母親を救う為に、お釈迦様の教えに聞き従って母親を救済したということです。

実はこの『盂蘭盆経』は中国で作られたものであり、ある意味で「偽経」ともいわれているお経であります。
ですから、極端な言い方をするとお盆は仏教とは関係ないという見方をする人もいます。
しかし、中国で作られようが、日本で作られようが、それなりに仏教の背景は持ち合わせているんだと思います。
ですから、本来の仏教の教えに照らし合わせてどう解釈するかが大切であります。
仏教でも各宗派によってその解釈は違うと思います。

今回はどう解釈すべきかということは、あえて避けますが、「霊を迎えて送る」ということについて述べたいと思います。

もともと仏教では「霊魂」というものを認めません。
「霊魂」は有るか無いかという議論がありますが、有る無しを議論すること自体が自我や我執の延長にあることです。
つまり仏教は「(諸法)無我」(執着を超えた世界)を説きます。
お釈迦様は「霊魂の存在は確かめる必要がない」と説かれ、有る無しで右往左往すること自体が無意味なこと、迷いを深めることと教えてくださっておられます。

仏教では、亡くなられた方は霊ではなく仏(迷いを超えた立場)となります。
お盆に先祖の霊を迎えて送るというのは、先祖に対して甚だ失礼な話だと思います。
あれだけ大切に思っていた先祖を迷った存在として扱い、離れ難いと思っていたのにたったお盆の数日間しか出あおうとしない行為です。
亡くなられた方は、仏として出あうべきです。
むしろ迷いのまっただ中にあるのは私たちであり、その私たちに寄り添いながら救済くださる大切なはたらきとして出あうべきです。
仏様は四六時中いつでもどこでも出あえる方です。

迎え火とは、「帰ってくるところはここですよ」という意味があります。
つまり「霊」だから迷ってるんです。
迷ってるから目印が必要なんです。

仏教の教えに照らし合わすと、多くの日本人が行っているお盆の過ごし方は仏教から逸脱していると思います。

この時期になると盆提灯を飾るということが行われますが、どういう意味があるのでしょうか。
一説では、迎え火と同様に提灯の灯りが死者の霊にとって目印になるからといわれています。
実は浄土真宗の正式なお荘厳としては、お盆には「切籠(切子灯籠)」という灯籠を下げます。
「切籠」とは、上部が八角形の火袋になっていて、下部に切紙の尾をつけた灯籠であります。
これは「倒懸」を表しているといわれます。
『盂蘭盆経』に、目連尊者の母親の倒懸が記されていますので、女性の方が逆さ吊りにされている姿を表しているのです。
下部の切紙が女性の人の髪だということです。
真宗大谷派の「切籠」
白・赤・紺で彩りされています
盆提灯の下部に垂れ下がった房も同様の意味があるのかもしれません。
灯籠、提灯に型の違いはあるものの、お盆に下げる意味は「倒懸」ということであります。
できる限り浄土真宗の方は提灯ではなく「切籠」を用いることをおすすめします。