東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。

東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞
い申し上げます。

2010年11月28日日曜日

親鸞聖人御命日

今日11月28日は浄土真宗の宗祖親鸞聖人の御命日です。
親鸞聖人は弘長2年(1262年)11月28日、90歳(満89歳)でお亡くなりになりました。
したがって、お亡くなりになられて今年で748年ということになります。
来年は749年となりますので、いよいよ750回忌です。
「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」が厳修される年です。
浄土真宗において年中行事の中で最も大切にされる法要は「報恩講」という法要で、それはいわば親鸞聖人のご法事であり、宗祖親鸞聖人に対する報恩謝徳を意味します。
その由来は、本願寺三世覚如が、親鸞の三十三回忌に『報恩講私記(式)』を撰述した事が起源であるとされています。
真宗本廟(東本願寺)では11月21日から28日までの8日間(7昼夜)「御正忌報恩講」が厳修されます。
28日の結願日中(午前10時〜)だけにお勤めされる「坂東曲」は有名であります。
「坂東曲」とは上体を揺らしながら念仏や和讚を唱えるお勤めです。
親鸞聖人が越後へ流罪になる際、荒波に揺れる船の中で一心に念仏を唱えた話に由来します。
今では他の浄土真宗宗派では見られなくなり、大谷派だけに残っています。

ちなみに、弘長2年11月28日は、新暦になおすと1263年の1月16日にあたります。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)は新暦に換算し、1月9日から16日までの8日間に御正忌報恩講」をお勤めします。
一般の真宗寺院では、本山の厳修時期をずらしてお勤めされますが、そういう意味から「お取越」や「お引上」と称されることもあります。
地域によって厳修時期にばらつきがありますが、早いところで10月、遅いところで2月くらいにお勤めされることがほとんどだと思います。
各家庭においても「報恩講」が最も大切な法要としてお勤めされてきました。
門徒のお内仏(仏壇)の荘厳を整え、所属寺院(お手次寺)の住職を招いてお勤めされ、「門徒報恩講」や「在家報恩講」と呼ばれています。
最近では各家庭での報恩講をお勤めする方が減ってきましたが、真宗の門徒として必ずお勤めいただきたいと思います。
27日〜28日は一昼夜、精進料理で過ごしました。
何度か書いたことがありますが、最近こういうことをしなくなりましたね。
やっぱり大切な方の御命日は生臭物は控えるべきだと思います。
真宗門徒のたしなみです。
特に年一回のこの日くらいは精進料理で過ごしましょう。
(できれば毎月するのがいいのですが・・・)


大分市組では、今月よりそれぞれのお寺で報恩講が始まり、1月末までには全20ヶ寺ほとんどのお寺で勤まります。
当西福寺では毎年1月21日から28日までの8日間(7昼夜)に「御正忌報恩講」が厳修されます。
大分市組の伝統でお互いのお寺の報恩講にお参りし合う習慣があります。
私も今月厳修された数ヶ寺のお寺さんにお参りさせていただきましたので、紹介いたします。


【妙林寺】(大分市富岡)
11月12日〜13日
講師:衛藤弘海師(由布市光泉寺住職)
12日の夜、19時からの大逮夜にお参りさせていただきました。
妙林寺さんの本堂
講師の衛藤さん
衛藤さんの温かいお人柄がにじみ出ているご法話でした
参詣のみなさん
この法座はこの一年間でご家族がお亡くなりになった方々の「初のお晩」でした
【等應寺】(大分市北下郡)
11月13日〜15日
講師:野田亨師(等應寺住職)
14日の昼、13時半からの法座にお参りさせていただきました。
等應寺さんの山門から本堂
大分市組門徒会長の宮崎さんの所属寺院です
【妙正寺】(大分市戸次)
11月25日〜28日
講師:長峯滉明師(大分市西福寺住職)
28日の日中、10時からの法座にお参りさせていただきました。
妙正寺さんの本堂
この日は素晴らしい天候でした
大分市戸次地区に伝わる郷土料理の「鮑腸」(ほうちょう)をいただきました。
見た目はうどんのようですが、一本のめんの長さは二メートル以上あります。
この長いめんをつゆにつけて食べます。
毎年ここでこれをいただくのが楽しみです。
【長久寺】(大分市萩原)
11月21日〜28日
講師:村上秀麿師(田川郡赤村光明寺住職)
27日の夜、19時半からの大逮夜にお参りさせていただきました。
長久寺さんの本堂
参道が行灯で照らされていました
報恩講のご案内
御伝鈔」の下巻が拝読されました
拝読者は法務員の西さんでした
堂々として上手でした
講師の村上さん
参詣のみなさん

各お寺様、お疲れさまでした。
また、ご馳走になりました。
ありがとうございました。

2010年11月23日火曜日

前坊守一周忌法要

昨日11月22日午後2時から、前坊守(長峯ミサオ)「開華院釋尼妙清」の一周忌法要が執り行われました。
前坊守・長峯ミサオ
法名「開華院釋尼妙清」
前坊守は現住職の母親で、私からいうと祖母にあたります。
体調を崩し約2ヶ月ほど入院生活をおくりましたが、高齢でありましたので回復することができず、昨年のこの日(11月22日)96歳をもってお浄土へかえりました。。
前坊守は大正2年5月13日、福岡県東部にある椎田町(現築上郡築上町)の長寿寺(浄土真宗本願寺派)に生まれ、昭和8年にこの西福寺に嫁いで参りました。
長寿寺は非常に大きな寺で、自分で靴を履いたこともないようなお嬢様育ちだったようですが、両親を早く亡くし寂しい思いがあったようです。
当時弟や妹の多い家族であったうえに、自分の夫である前住職も気ままな性格でしたのでずいぶん苦労したと言っていました。
しかし、前住職も人柄は優しかったようですが、昭和36年に若くして亡くなりましたので、約半世紀は未亡人でした。
昭和62年には自分の娘を亡くしていますので、多くの身内を早く亡くすという人生でした。
しかし、性格は気丈というか冷静沈着というか物怖じしない方でしたが、外に対しては愛想がよかったので御門徒さんや周りの人からいたわられていたと思います。
私は内孫ということで非常にかわいがられており、怒られたことなど一度もありませんでした。
一周忌法要のこの日は、あいにくの雨でしたが、親戚や有縁の方が30名ほどの方にお参りいただきました。
お念仏させていただきながら、祖母を偲ぶ一日でした。
境内の紅葉もきれいでした
法要の様子
法要の様子
中1の長男が学校が休みでしたので参列しました
午後4時よりおときがありました
会場は大分全日空ホテルオアシスタワーでした
会場の20階から大分市が一望できました
あいにくの雨でしたのでちょっと残念でした
住職のお礼の挨拶
導師をお勤めいただきました相焼香の法專寺ご住職
おとき会場の様子
おとき会場の様子
おときの料理
本来ならば法事のおときは精進料理がふさわしいのですが、家族のみで前日の21日から22日の昼まで精進料理で過ごしました
申し訳ありませんが、ここでのおときは精進を落とさせていただきました
お参りいただいた方で記念撮影

2010年11月22日月曜日

大分市組御遠忌お待ち受け大会

11月18日(木)「大分市組宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受け大会」が開催されました。
今回の大会のパンフレット
「お待ち受け」とは、来年2011年に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌をお迎えするにあたり、御遠忌をアピールしたり、気運を高めたり、迎える姿勢を確かめたりするために勤められます。
日豊教区では2009年3月に「お待ち受け法要」(於:四日市別院)、今年2010年5月に「お待ち受け大会」(於:ウサノピア)を厳修、開催いたしました。
また各組(全15組)においても昨年度よりお待ち受け法要・大会が勤められてきました。
大分市組では開催の目処が立たず、御遠忌まで半年を切ったこの日、ようやく開催の運びとなりました。

開催内容は以下の通りです。
◆と き 2010年11月18日(木)午後1:30〜
◆ところ 大分コンパルホール(大分市府内町1-5-38)
◆日 程
13:30 開会式
13:45 『親鸞聖人伝絵』絵解き説法 
講師:梛野明仁さん
14:30 休憩
14:45 記念講演「いのちのバトンタッチ」〜映画『おくりびとによせて』〜
講師:青木新門さん 
16:15 閉会式
会場の大分コンパルホール
会場内の荘厳
大分市組荷堂組長の挨拶
今回は法要形式ではなく、公共の文化施設を利用しての大会形式で開催いたしました。
大分市という地域性と講師の知名度を考慮して、お寺での法要よりも一般社会に向けた働きかけの方が大切ではなかろうかという意図があったからです。

今回の大会は、記念講演と親鸞聖人に関係のあるものの二部構成といたしました。
記念講演はある程度知名度のある方ということで、2009年にアカデミー賞を受賞した映画『おくりびと』の制作のきかっけとなった『納棺夫日記』を著作された作家の青木新門さんにご出講いただきました。
また、今年5月の日豊教区お待ち受け大会にもお出でいただき参加者からの好評の声が多かった、三河スーパ絵解き座座長の梛野明仁さんによる『親鸞聖人伝絵』絵解き説法も第一部として行われました。

【第一部 『親鸞聖人伝絵』絵解き説法】
講師の梛野さんは、岡崎教区の本澄寺住職をなさっておられますが、その傍らで三河スーパー絵解き座座長として絵解き説法に全国から引っ張りだこで活躍されています。
実は私は彼と十数年前からの知人であり、彼のとてもユニークな人柄が魅力的と感じています。
そういった知人のよしみという事で、無理を言って大分にお越しいただきました。
前日も三重県で講演を行ったようで強行スケジュールの合間に都合をつけてくださいました。
『親鸞聖人伝絵』とは本願寺三代目の覚如上人が親鸞聖人の御生涯を記すために制作されたもので、文にしたものが『御伝鈔』、絵にしたものが『御絵伝』と称します。
その『御絵伝』は四幅の軸にあらわされ、真宗の歴史的において布教の中核的役割を担ってきた訳ですが、その絵を解きながら布教するスタイルが絵解き説法であります。
現在その伝統を引き継ぐ方が数少なくなってきましたが、梛野さんはその中のお一人で若い時分から絵解きを習得されたようです。
琵琶をひいたり、時折ユーモラスのあることをおっしゃるなどのパフォーマンスが会場中を引きつけていました。
絵解き説法の梛野さん
今回は一幅目を中心に絵解きがありました
【第二部 記念講演「いのちのバトンタッチ」〜映画『おくりびとによせて』〜】
青木新門さんは富山県の冠婚葬祭会社に入社され、死の現場に身をおきながら体験したことや感じたことを綴った作品『納棺夫日記』を著されました。
その『納棺夫日記』をたまたま手にした俳優の本木雅弘が、是非これを映画にしたいということから映画『おくりびと』が制作されたのです。
講演は青木さんの人生経過や本木雅弘との交流などが語られ、とても興味深いものでした。
青木さんは『納棺夫日記』の中で「腐乱死体のウジ虫が光って見えた」という表現をされていて、本木雅弘がそこに興味をもったというようなエピソードをおっしゃっていました。
ただ、青木さんは『おくりびと』の原作者となることを辞退しました。
その理由は映画の内容に、「人間は死んだらどうなるのか?」とか「お浄土」についてのことが触れられていなかったからだそうです。
今回その映画では表現されていなかった部分や、青木さんの宗教観などをお聴かせいただいて大変意義深いものであったと思います。
特に青木さんの紆余曲折というかある意味で破天荒ともいえる半生が私にとって印象的でした。
講師の青木新門さん
本木雅弘がガンジス川に行ったときの写真を紹介されました
「ダ・ヴィンチ」という雑誌の表紙に『納棺夫日記』を手に持つ本木雅弘が載りました
この雑誌の中で映画化を語っていたそうです
その後かなりの歳月を経て映画化が実現しました
青木さんが感銘を受けた一枚の写真が紹介されました
長崎の原爆で弟を亡くした少年が、その弟を背負って火葬場へ連れてきた写真です
詳しくは青木さんのHPをご覧ください
最後に青木さんの詩が紹介されました
最後は参加者一同で「恩徳讃」を斉唱しました
夜は青木さんを囲んで懇親会が開催されました 
住職、若院、坊守、門徒さんなど34名が参加しました
今回の準備に若手寺族の皆さんが本当にご尽力くださいました
最後は青木さんよりご挨拶がありました
この大会が御遠忌に向けての盛り上がりを助長させるべく勝縁となったことだと思います。

2010年11月15日月曜日

日本人のメジャー挑戦について

今オフにメジャー移籍を視野に入れている選手が出てきました。
楽天の岩隈はポスティングの入札があったようで、ほぼ移籍は間違いないと思います。
千葉ロッテの西岡もポスティング、同千葉ロッテの小林宏之もFAでメジャー挑戦を表明しています。
ダルビッシュ(日ハム)、中島(西武)は今オフは見送りとなったようです。
川崎(ソフトバンク)は来オフと言われています。
逆にアスレチックスの岩村は日本球界復帰となり、楽天が獲得したようです。
メジャーリーグでプレー経験がある日本人選手はこれまで(昨年まで)で42人いたようです。
ご存知のように、第1号は1964年の村上雅則投手で、その後1995年の野茂がドジャーズに入るまで30年以上の歳月が経っていました。
その間に江夏豊が挑戦しましたが、メジャーデビューは果たせませんでした。
(その他何人かの選手が挑戦したり、交渉したりしています)
しかし、野茂の渡米が引き金となって、その後日本人選手が次々に海を渡りました。
ここで一度整理してみます。

《1964年》村上雅則
《1995年》野茂英雄
《1996年》マック鈴木
《1997年》長谷川滋利、柏田貴史、伊良部秀輝
《1998年》吉井理人
《1999年》木田優夫、大家友和
《2000年》佐々木主浩
《2001年》イチロー、新庄剛志
《2002年》野村貴仁、小宮山悟、石井一久、田口壮
《2003年》松井秀喜
《2004年》松井稼頭央、大塚昌則、高津臣吾、多田野数人
《2005年》井口資仁、藪恵壹、中村紀洋
《2006年》城島健司、斉藤隆
《2007年》岩村明憲、岡島隆、松坂大輔、井川慶、桑田真澄
《2008年》福留孝介、福盛和男、小林雅英、黒田博樹、薮田安彦
《2009年》上原浩治、川上憲伸、高橋健、田沢純一
《2010年》高橋尚成、五十嵐亮太

これだけの選手がメジャーでプレーしましたが、いったいどれくらいの選手が成功したと言えるのでしょうか?
まあ、評価する人の主観もあるでしょうが、ほんの一部の選手しか活躍できなかったと思います。
あえて活躍度をAランク、Bランク、Cランクに分けるならば、私が評価するAランクの選手は野茂、長谷川、佐々木、イチロー、松井、岡島、松坂、黒田の8名くらいだろうと思います。
Bランクとして2、3年の活躍ができた選手が数名といったところでしょうか。
中には「この程度の選手でよくメジャーを目指したなあ」という選手もいます。
井川、小林雅、上原などは日本であれだけの実績があったのに、やっぱり通用しないんだなあと思わせるほどの体たらくです。
桑田や高橋健のように最後の花道的な挑戦はわからないでもないです。
こうやってみると投手は岡島のように使い方次第で通用しそうですが、野手は厳しいと思います。
正直、松井稼頭央は通用するだろうと思っていましたが、結果大した活躍ができなかったですね。
(おそらく来シーズンは日本に戻ってくるんじゃないですか。)
やっぱり内野手は、よっぽどの選手じゃないと使い物にならないんじゃないでしょうか。
向こうの選手(内野手)は守備のうまさというよりも、体の大きさと肩の強さが重要視されるんです。
外野手は日本人選手の方がうまいです。
田口なんかはそれで持った選手です。
そういう意味で内野手の西岡は絶対通用しないと思います。
西岡もそうですが、今後メジャーを目指している川崎も中島も全盛期の松井稼頭央ほどの力もないし、中途半端な選手です。
野手ならば、外野手かスラッガーならば何とかなるんじゃないでしょうか。
今の日本球界だと、青木(ヤクルト)か村田(横浜)くらいですかねえ。
ソフトバンクの秋山監督が若い時、メジャーの数球団から身分照会を受けていたそうですが、当時の秋山なら絶対通用していたと思います。
巨人の高橋由伸も全盛期なら通用してたんじゃないですかねえ。
投手は通用しそうな選手は少なくないと思います。
岩隈、ダルビッシュ、涌井あたりは間違いなく通用しますよ。
小林宏之はそれほどの器じゃないですね。
きっと2、3年で帰ってきますよ。

TBSで日曜日の朝に放送される「サンデーモーニング」のスポーツコーナーに解説者の張本勲氏が出演しています。
張本氏の持論には賛否の声が様々であります。
私も張本氏の発言に「その考え方はどうなんでしょうか」と思うことが頻繁にあります。
しかし、メジャーに対しての意見については同感する点が多いです。
まず、「メジャーのレベルが低下した」という考えです。
もしかしたら日本人選手のレベルが上がったのかもしれません。
でも、成績の結果は別としても「この程度の選手をメジャーの球団がよく取るなあ」と思うことが多いです。
野村、福盛、薮田あたりは最初から無理だと思ってましたが、案の定すぐに帰ってきましたよ。
それから張本氏がよく言ってることは「一度メジャーに行ったら数年間は日本でプレーできない規約をつくるべき」ということです。
最もだと思います。
最近しばしば「日本球界はメジャーの2軍になった」と言われることがありますが、このことがその原因でその弊害となっているんです。
「無理だったら日本に戻ってきたらいい」というように、身の丈知らずで気軽に夢を追って挑戦する選手が多いんです。
約半分の選手が日本球界に復帰してますよ。
そうやって考えると、野茂や長谷川は筋の通った人間だと思いますね。
別のパターンですが、井川も帰って来れないのか来ないのかわかりませんが、根性ありますね。
それから、日本の球団も帰ってきた選手を受け入れるのも節操がないと思います。
特に古巣に戻るなんて信じられません。
さっきも申しましたが、福盛と薮田は何をしにアメリカに行ったんですかねえ。
福盛の場合は当時の楽天野村監督が取りたくなかったみたいですが、野村監督のその気持ちがよくわかります。
一度日本球界を離れたら最低5年くらいは復帰できないというような規約はつくって欲しいと思います。

まあ縷々いろいろと勝手に、そして無責任に述べてしまいましたが、実は私野球経験がない全くの素人です。
いまさらですが、偉そうなことを言って申し訳ありません。
しかし、これも日本のプロ野球ファンとして、プロ野球がつまらないものになってほしくないという思いで申し上げたものですから、お許しください。

2010年11月14日日曜日

善教寺前住職門徒葬

11月13日、佐伯市の善教寺様で前住職の門徒葬(14時〜)があり、参列させていただきました。
前住職は、善教寺第16世住職で俗名は桑門豪さん、法名は「信楽院釋稱憲」とおっしゃいまして、寿算81歳でした。
故・桑門豪さん
前住職は9月30日にお亡くなりになり、密葬を済ませておられましたが、満中陰を迎えたこの日に善教寺門徒葬として本葬が執り行われました。
前住職の桑門豪さんは、九州大谷短期大学の学長を21年間務められた方で、退任後も名誉学長をなさっておられました。
九州大谷短期大学の設立時には設立実行委員長をなさり、まさに九州大谷短期大学の礎を築いてこられた方でした。
その他、ご寺坊に併設されておられるルンビニ幼稚園と聖徳保育園の園長、理事長を歴任されていました。
京都大学の教育学部を卒業されておられたからでしょうか、宗教における教育機関の重要性をうったえられた御生涯だったと思われます。
宗門においても、真宗大谷派(東本願寺)の教学研究所所員、大谷専修学院講師、教育部長、久留米教務所長などの要職を歴任された経歴を持ち、多岐にわたってご尽力いただいた方でした。
葬儀では九州大谷短期大学の現学長の大江憲成先生が弔辞を述べられ、桑門豪さんのご遺徳を偲んでおられました。
葬儀の最後に喪主の現住職から謝辞がありました。
今年7月頃から体調を崩されたそうですが、療養中も奥様の前坊守様のことを気にされておられたことなどのお話をうかがいました。
「父親には何事にも真剣に取り組む姿勢がありました」というご挨拶の言葉が印象的でした。
葬儀の開式にあたり善教寺のコーラスグループ「きりんの会」による仏教讃歌がありとても素晴らしい歌だったので紹介します。

仏教讃歌
「生きる」
一、生かされて 生きてきた
  生かされて 生きている
  生かされて 生きていこうと
  手をあわす 南無阿弥陀仏
二、このままの わがいのち
  このままの わがこころ
  このままに たのみまいらせ
  ひたすらに 生きなん今日も
三、あなかしこ みほとけと
  あなかしこ このわれと
  結ばるる このとうとさに
  涙ぐむ いのちの不思議に

謹んで哀悼の意を表します。
合掌(南無阿弥陀仏)
山門
善教寺本堂の様子
葬儀の荘厳
きっちりとおかざりされていました
余間が中陰の荘厳にされていました
参勤法中
導師の臼杵・善法寺御住職と佐伯組内法中
おとき会場でご挨拶する善教寺住職
佐伯では葬儀の後におときがあるそうです
16時から近くの錦水園というホテルでありました
お招きいただいたのでおときを頂戴しました
おときの前に、亡くなった前住職の従姉妹の方が前住職を偲んでフルートを演奏されました
おときの料理は勿論精進料理でした
最近は「精進落とし」といって、初七日の日から生臭モノを食べるのが気になります
仏教では伝統的に四十九日までの間は精進料理で過ごすのが本来的なかたちです
おとき会場の様子
御門徒さんも多く列席されていました