東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。

東北地方太平洋沖地震で犠牲に遭われた方々には衷心より哀悼の意を表し、被害に遭われた方々には心からお見舞
い申し上げます。

2010年9月21日火曜日

お墓参り

昨日は彼岸の入りだったので、お彼岸についていろいろと綴りましたが、それに関連してお墓参りについて書きます。
当西福寺には納骨堂があります。
昭和39年に建てられたもので、当時はおそらく納骨堂の走りの時代じゃなかったでしょうか。
180基ほどありますが、当然今はもう空きはありません。
しかし、納骨堂の需要は大きいんです。
毎年何件か申し込み希望をいただくんですが、空きがないのでお断りさせていただいています。
そういう意味で建替えるか、増床して数を多くしたいという思いです。
近々何らかのかたちで対処するつもりです。
お墓ではなく納骨堂を求められる方の理由はそれぞれあるようです。
例えば、お墓だと管理が大変だとか、若い世代が地元から離れているだとか、お寺の境内のあるから安心だとか、その他いろいろあるようです。
都市部ではなく田舎の方の寺でも納骨堂があり、その需要が多いようです。
私の知っているお寺さんで所謂山間部にあるんですが、そこには立派な納骨堂が2棟もあります。
言葉はよくないですが、「何故こんな田舎に必要なんだろう。墓を建てる土地なんかどこでもいっぱいあるだろうに」と思います。
さてその納骨堂ですが、お彼岸のこの時期は本当に多くの方々がお参りに来られます。
お彼岸以外でいうと、お盆、それから年末年始も参拝者が多いです。
あらためて、日本人はお墓参りが好きなんだなあと感じます。
お盆やお彼岸の時期はお墓参り用にお花が売れるんですね。
お花屋さんやスーパーなどにお墓参り用のお花が多く出ます。
テレビのニュースなどでも墓地に参詣する人々が映し出されます。
お墓参りが好きな方は、お盆お彼岸だけにお参りするだけじゃないんですね。
例えば月命日です。
当西福寺では月忌参り(月命日の日に該当する門徒宅にお参りする)を行っています。
お参りすると、朝早く墓参りを済ませたとか、この後お墓にお参りするとかおっしゃられる方が多いです。
散歩がてらに毎日お墓参りされる方もいるようです。

このようにお墓参りの好きな日本人ですが、昨日のブログ(「お彼岸」)でも記したようにお彼岸の本来的意味は仏法聴聞に励むというところにあります。
つまり、仏教の教えをいただくということです。
仏教徒の基本的姿勢は「帰依三宝」です。
三宝、三つの宝は「仏」(真理に目覚めた人)、「法」(仏の説く教え)、「僧」(仏の教えを一緒に聞く仲間)のことです。
お墓参りの一般的、世間的な感覚や意識は先祖崇拝、先祖供養じゃないでしょうか。
それは、先祖を偲び、先祖のためにお参りすることによって、先祖の冥福を祈るということです。
仏教徒の基本姿勢とはかけ離れています。
「帰依三宝」の姿勢は法座に座るということです。
本尊に向き合い、仏を讃え(お勤めをする)、仲間とともに仏の教えを聞くのが法座です。
しかし、近年本当に「彼岸會法要」の参詣者が少ないです。
彼岸だけでなくほかの法要も昔に比べたら少なくなりました。
この原因にはまずは寺側の立場として、寺側に大きな責任があることは否めません。
しかし、同じ境内にある納骨堂にお参りしながら、法座どころか本堂にすら入らない方が多いのには驚きます。
かつて、納骨堂に入られている御門徒さんのお宅にお参りした時に、「納骨堂にお参りの際は本堂にもお参りください」と申し上げたところ、「本堂とかありましたかねえ」と信じられない言葉が返ってきたことがあります。
納骨堂より遥かに大きな本堂の存在に気づかないというくらいの意識です。
以前「お寺は風景だ」といわれたことがありましたが、風景にすらなってなかったんですね。
唖然としました。
ある方が「お墓参りはすごく大事なことなので、自分も欠かさずにするが、このことだけは子どもにちゃんと伝えている」という方がいました。
一見、今時感心な人だと評価されそうな話です。
しかし、本人が何故大事なのか、それを伝えられた子どもも大事だという理由がはっきりしているのか疑問です。
形式的なことが受け継がれることは大事だと思いますが、逆に形式的なことが根強くなり意味や意義を問うという意識が低下する弊害もあるんではないでしょうか。
そのバランスは非常に難しいです。

私は、お墓参りは大いに結構なことだと思っています。
お墓というものは、亡き人が還られたお浄土の世界を、亡き人の亡がら(御遺骨)が収められた場所でより深く感じることができるという意味で大きな役割を持つものだと思います。
私は「聞く」ということがいかに大事なのかということをあらためて痛感しています。
真宗でもいろいろな形式やスタイル、習慣を持ち合わせています。
しかし、それらは全て「聞く」ということへの導入になっているんだと思います。
必ず「聞く」という確かめの場が開かれるんです。
形式化したものの意味が逆にわかるんです。
そういう意図が背景にない形式的なことは逆に厄介なことにもなってしまうように思えます。

本当はお寺に墓があったり、納骨堂があるというのはお寺に参る導入に繋がるから意味があったと思います。
本堂を通らなければ納骨堂に行けないお寺もあります。
わざわざそうしてるんですね。
本山に納骨される方もいらっしゃいます。
ただ単に本山への結びつきを強く感じるために納骨される方もいらっしゃるでしょうが、先祖の遺骨を納めることによってそこに足が向いていくというようなことの方が大事な理由だと思います。


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